泉の下から贈り物
私の宝石箱の中には、青いガラスのペンダントトップの首飾りが仕舞われている。
会う人会う人に褒められるその首飾りは、祖母が存命中にヴェネチアで買ってくれたものだ。
知人友人にその首飾りを褒められるたび、12年前に泉下に名を連ねた祖母のことを思い出す。
祖母はうつくしい人だった。
大学ではマドンナと呼ばれていたらしい。それは、祖母がいなくなってから祖父母の家にかかってきた電話で知った。「僕は彼女のことがずっと好きだった。お墓にご挨拶に行きたい」
祖母のかつての同窓生だった男性の申し出に、祖母の娘と孫たちは目を丸くした。
頭の良い祖母は、祖父の転勤でアメリカに渡った時も、向こうでドライバーズライセンスをさっさと取得し、アメ車を乗り回していたそうだ。
地方に住む祖母とは、年に数日しか共に過ごす日はなかったけれど、私は彼女のことがとても好きだった。
家事をしながら歌う声の美しさや、彼女の毛皮のコートや革の鞄に触れるのも好きだった。
そんな祖母の孫として幸せに育っていた小学四年生の頃の私は、義務教育の学校に馴染むことができない子供だった。
己の信念と、他者との協調の狭間で、器用に均衡を取ることが出来ない子供を、周囲はやや持て余していたことだろう。
私を古くから知っていた同級生らは「ななちゃんはこういう子」と受け入れてくれていたが、その年に赴任してきた担任の教師は違った。私の行動や服装に逐一けちをつけた。
私が自分の意見を述べたり、理不尽な仕打ちに遭ったことを訴えても、当時の担任は顔をしかめ相手にしなかった。
それどころかある日、私がそれに対して抗議の登校拒否をした日の帰りの会で、私の主張を捻じ曲げて級友に伝えた。
私の不在のその場で、教室全体がどのような空気に支配されたのか、私は今でも想像することが出来ない。
その日から私の友人はいなくなった。皆、私のことを「自己中」「モテるからと良い気にならないで」と陰口を叩いた。
担任は何食わぬ顔で「最近陰口が増えています。皆さん仲良くしましょう」と学級会で発言をする。教室を見渡す彼女の顔には得意げな笑みが浮かんでいた。
その目線が私の上で揺れた時、私は思わず立ち上がった。
「私は皆と仲良くしなくても良い。文句があるなら私に直接言いなさいよ」
と言い捨て、リュックを掴むと自宅まで走って帰った。
帰り道、様々な想いが去来した。
どうして私はこうなるのだろう。
皆と揃いのランドセルで登校すれば、このような境遇は改善されるのだろうか。
好きでもないジーンズで校庭でドッジボールに興じればいいのだろうか。
登下校時に道草を食う同級生を置いて帰ることがそんなに悪いことなのだろうか。
男子にちょっかいをかけられても平然とやり過ごせばいいのだろうか。
けれど、私は何も悪いことをしていないと思う。何故、私が譲歩しなくてはいけないのだろう。
私は、ランドセルが校則でないことを知っていた。その上でランドセルを非合理的だと判断し、二年生の頃からリュックで登校していた。
ドッジボールは好きだけど、それよりも本を読みたい日だってあるし、好きなお洋服を纏いたい日だってある。
ピアノのお稽古の日は、先生が家にいらっしゃるから、それまでに帰らなくてはいけないし、そもそも好きでもない男子に抱きすくめられたら、誰だってそいつを罵倒するだろう。
自分の行動の理由を問われれば、かのようにして説明をすることが出来る。
けれど、担任は私に訊ねることもせずに私を断罪する。言葉によって行動が定められるのならば、その言葉を奪われた私はどうすればいいのだろうか。
家の前に着いた私は、深呼吸をして笑顔を作ると、静かに玄関の扉を開けた。母親に学校での仕打ちを説明するには、私のプライドはあまりにも肥大していた。こんな瑣末なことを母に伝えて、彼女の手を煩わせるのは本意ではない。
それでも。
その夜、母とお風呂に入っている時に、明日の学校のことを考えていたら、涙が溢れてしまった。
母は、シャワーをかぶったまま動かなくなった私を不審に思ったのか、シャワーの栓を締めると、私の顔に張り付いていた髪を丁寧によけた。その指先の柔らかな厚みに、私の涙は止まらなくなってしまった。
母は、私のたどたどしい説明を全部聞くと
「それは大変だったね。あなたは何も悪くない。今日はゆっくり休んで、明日どうしたらいいか一緒に考えよう」
そういって私を脱衣所へ導いた。洗いたてのバスタオルに包まれた私が、鏡の中で真っ赤な目でこちらを見つめていた。
帰国子女だった母親には、私の置かれた環境を理解しきれなかったのかもしれない。
寝る時間が来たのでおやすみを告げるために母の自室を覗くと、母が地方に暮らす祖母と電話で話し込む姿が見えた。
「私って周りに迷惑かけてばかりだ」
私はぬいぐるみを胸に抱き締めて眠りについた。
その週、祖母から小包が送られてきた。私の登校拒否は数日で終わり(家でおとなしくしているのも飽きたから)、私は保健室に登校するようになっていた。
祖母はよく、私のために美味しい果物や素敵なお洋服をよく送ってくれるのだが、その日は本と手紙だけが届いた。
「人間は色んな人がいます。自分の生き方は自分で見つけましょう」
祖母の柔らかな字が添えられたその本は、大江健三郎の「自分の木の下で」だった。
当時の私はその本を最初の方だけ読んで、それきり読まずに本棚に仕舞ってしまった。
学校生活が忙しくなったから読書どころではなくなっていたのだ。
級友の何人かが、私の側に戻ってきていた。担任の振る舞いに予てから疑問を持っていた友人や、私の肩を持つ友人も現れ、彼らはいつの間にか「先生に対抗する会」というのを結成していた(なんだそりゃ)。私は、今まで通りの日常のその先へと動き出していた。
祖母が亡くなった時も、その本のことは思い出さなかった。本が書棚の隅に押し込められたまま、気づくと15年が過ぎていた。
その本の存在を思い出したのは、日本を離れてからだった。
私は当時の恋人の裏切りによって、精神的に疲れ切っていた。
「君のことは愛している。けれど、彼女と、彼女の子供に真剣に向き合いたいんだ」
曇天の冬空の下で、彼の言葉は私の表面を撫でさする。私が口を開こうとすると、苦しげな緑の瞳でそれを牽制する。
私は何も言えなかった。何を言っても、その言葉は私と彼の間に広がる亀裂の底へ吸い込まれていく確信があった。
泣きつける母は側にいない。連れてきていたぬいぐるみを胸に押し付け、ひたすらに堪えた。
泣き疲れたある日、閉め切っていたカーテンの隙間から窓の外を覗いた時だった。辺り一面が淡く光っていて、その光が僅かに室内まで差し込んでいた。また雪が降ったのかしら。
腫れぼったい瞼を開いて辺りを見回すと、中庭の中央に植えられた一本の樹に、真っ白い花が、空を見上げてたくさん咲いていた。
よくよく目を凝らして見てみると、その花弁の根本は淡くピンクに色づいていて、ふるふると震えていた。木蓮だ。
冬の間じっと立ち尽くしていたあの樹の名前を、私は今日まで知らなかったのだ。樹の隙間を鳥が跳ねながら移動しているのが見えた。
その時、祖母から渡された本のことを思い出した。それと、彼女の美しい姿を。
季節は春に移り変わる時。
サマータイムが始まる週だった。
鳥のさえずりがワルツのリズムだったこと、覚えている。
私、あの本をおばあちゃんに貰ったんだ。私が悩んで苦しんでいた時に、自分で立ち上がれるように渡してくれたんだ。
天啓のように、悟った。
私がどんなに大きな愛によって守られているのかを。
祖母の肉体は消滅しても、彼女の愛は今でも私を照らしているのだ。胸にさげられた首飾りが、私の鎖骨をとん、と鳴らす。
参ったな、全然内容覚えていないよ、おばあちゃん。
私は空と木蓮を見上げてまた涙を流し、そのあと少しだけ笑った。涙の跡が攣れたけど、構わなかった。
カーテンを開けると、大きく深呼吸をして新しい空気を身体に吸い込んだ。
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