封印の赤い蝋

あなたに最後に会うと決めた日に、
私は赤い口紅を新調した。
銀座の松屋でそれを丁寧に塗られる時、私の唇は刷毛のしなりに合わせてその形を変えてみせた。
力を抜き半開きにした口の隙間から、白い歯が見える。
少し斜めにした鏡を見下ろした時、私は初めて自分がどんな表情で白いシーツの中のあなたを見下ろしていたのかを知った。
向かいのシャネルのソファは、私とあなたの待ち合わせ場所だった。姿勢を正してそこに座っていると、あなたがエレベーターからまろび出てきた。
「久しぶり。会いたかった」
そういうあなたの表情は、初めて私を見た時に困ったように笑ったのと同じだった。
私はあの時何故か、この人は泣き出すんじゃないかと思って、一瞬で恋に落ちたのだった。

私とあなたを乗せたS2000は万年橋のたもとから高速道路に乗った。タクシーの合間を縫って銀色の躯体は吸い付くように走る。
幌を開けて暖房を足元から利かせていると、車が空気を纏って白い光になるのを感じる。
長い髪が風に靡き、数本が唇に張り付く。時折あなたはギアから手を離し私の太ももに手を置いた。
このまま宇宙に落っこちていってしまいたい。都心を煌めかせる光の帯の中で、私の心は凍りついていた。

「今回のことは、本当にごめん」
あなたは、海の上のパーキングエリアでそう切り出した。
海を隔て対岸の工場地帯の灯りが見える。時折、離陸した飛行機の腹が頭上を覆った。
「まさか、あなたがあんな愚行に及ぶなんて思わなかった。信頼していた私が愚かだった」
風が海を震わせ、私のもとまで潮の香りを届ける。
「君を傷つけてしまったことを謝るよ」
あなたはこうべを垂れて私の言葉を待っていた。その首筋から頭へ続く曲線を見つめていると、ある一つの感情が私を襲った。その濁流に流されないよう堪えながら私は言葉を搾り出す。
「あなたの罪はあなたのものだけど、私の傷は私のものよ。あなたの責任じゃない」

「仲直りのキスをしよう」
暫くの沈黙の末、あなたはそう切り出し、冷たい風の中で私で暖をとるように身を寄せてきた。
「断るわ。口紅が取れてしまうから」

海の上で私達は一人と一人だ。
海の向こうからオリーブの葉を持ち帰る鳩は死んだ。
かつて私の心に宿った感情は、赤い蝋に封印されて深く冷たい海の底へ落ちていった。



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