水平線の内訳

「誰にも言わないで欲しいのだけど」

そう言って彼女は言い淀んだ。表情は見えない。灯りを消した小さなホテルのダブルベッドの端と端に、私と彼女は横たわっている。

私があなたの秘密を誰かに話したところで、私の周りにはあなたのことを知っている人はいないのに。

そう思いながら私は「うん」とうなづく。枕と髪が擦れる音が耳元で聞こえた。
窓の向こう側では世界が規則正しく進んでいる様子だったけれど、部屋の中はとても静かだった。建物の中には私達しかいないのではないかという妄想が頭をよぎる。シーツを通して伝わる彼女の体温に安らかな心地になる。

「私、まだ処女なの。25にもなって」

彼女の声は部屋全体に染み渡り消えていった。私はその余韻を消さないようにそっと「そうなの」と囁く。

薄々気付いていることであった。

中学生の頃から彼女の美しさは際立っていたが、彼女の話を聞く限りでは同級生の男子の中に彼女のことを性的対象としてみている者はひとりもいないようだった。スカートの丈も髪型の指定も律儀に守る彼女は、まるで鋳型で抜いたように普通に見えたからかもしれない。

高校は県下随一の進学校である女子高へ通い、それから国立の大学の医学部に現役で入学した彼女は、男に媚びを売るような立場に立ったことがなかっただろう。

彼女自身も自分の美しさに気がついていないようだった。二人で会う時はいつも、黒髪を一つに束ねて白いシャツにジーンズで現れた。その格好は、彼女化粧っ気のない顔を一層際立てていて、私はそれを眺めるのが好きだった。

そして、そのことが私に優越感を与えていたのかもしれない。

「もしかして、気がついていたの」
彼女がこちらに首を向けたのが分かった。耳のすぐ近くで彼女の声がする。
「うーん。気にも留めなかったけど。大学時代の恋人の存在を知らされていないから、別に驚かないよ」
「そっか。大学の人にもバレてるかしら」
「さあ。バレていたからといって何だというの」
私の問いに彼女は、そうなのだけど と口ごもった。
彼女の声色に滲み出るものに私は気がつかないふりをする。
中学生の頃から彼女が幾度となく私に示したその気配に、今日は違うものが混じっている。それは例えるのなら、桜の花の蕾が綻びる直前に周りに立ち込める香気のようなもの。
私はもう耐えられそうになかった。
私は明日、あなたを失うのだ。

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