【つらつら草子㉑】ここ数日

 1月23日に草津白根山が水蒸気爆発して、2月6日に台湾で地震が起こり、同2月6日、ベルリンの壁の崩壊後の期間がベルリンの壁の存在期間と同じになり、2月7日に上回り、2月9日に平昌五輪が開幕した翌2月10日に石牟礼道子さんが亡くなった。布団の中で思い出して、機会があれば朗読したいと思って写メってきた石牟礼道子さんの詩「花を奉る」をタブレットで開いて横になったまま音読をした。「春風萠すといえども」という冒頭をいつも「しゅんぷうきざすといえども」と読み進めているが「しゅんぷう」なのか「はるかぜ」なのか、判然としない。そういうところは何箇所もあった。正確な読み方はわからないし正確な読み方を知るすべがあるのかどうかすらもわからない。もしご存命であれば、何か機会があるなら、お会いしたいと思い続けていた作家であった。ファンレターの一枚でも書けばよかっただろうかと思いながら、まるまる二回声に出して読んだ。
 13の夜、椅子の上に正座をして痺れてしまった足を椅子の脚に勢いよくぶつけ、日本では仏滅、欧州では灰の水曜日が重なったバレンタインデーが訪れ、激痛にのたうちまわりながら迎えた厄年の誕生日、夜には腫れの引かない足を引きずってベルリン国立歌劇場に椿姫を見に行き、翌15日の夜に多和田葉子さんの朗読に行きサインをもらう。足の痛みは引ききらぬ。

 帰国まであと一ヶ月となった。2月は28日しかないので一ヶ月といっても28日である。石牟礼道子さんが亡くなったことに衝撃を受けて、何か書こうと書き始めたものの書き進まず、誕生日が過ぎてしまって「32まであと4日」としていたタイトルを書き換える。とはいえ書きたいという気持ちだけが腹に溜まっているようなので、このままだらだら書き続けてみる。
 四月から滞在して十ヶ月が経過した。一年の予定の滞在だったが、何度か一時帰国を考えたことがある。歯の詰め物が取れたとき、パソコンのバッテリーが壊れたとき、等々。年末年始に友人が来る予定になっていたのでせめてそれまではと踏ん張り、できることなら誕生日まではと踏ん張り、誕生日が過ぎてあと一ヶ月である。ドイツ語は遅々として進まない。あまり進めようという気力もない。
 冬の寒さはそれほどでもないけれど、日差しと湯船と温泉が恋しくて今は帰国が待ち遠しい、けれど日本から流れてくるネガティブなニュースを見ては帰りたくねえと呻いている。
「あたしおかあさんだから」の炎上を見て「あたしおかあさんだけど」のハッシュタグの攻防をドイツ語で作文にした。日本の女性差別に関する話はこれまでに何度か作文にして出した。クラスメイトのオーストラリア人の男性ジャーナリストが「日本と韓国は女性差別がひどいんだよね」と感想を言ったのを覚えている。その頃111位だった男女平等ランキングはその後114位まで落ちる。
 ドイツに来てすぐのころ、「ツイッターの性別を”その他”にすると不快な広告が表示されない」というのが話題になっていた。居住地がドイツになってから、日本で見ていた不快な広告はほとんど流れなくなっていた。
 いくつかの学校を転々として、先月いた夜のクラスには二人のオーストラリア人がいた。そのときの授業のテーマは男女の平等に関するものだったのだが、オーストラリア人の男性が「ドイツはセクシストが多い」と言った。なぜインタビューで女性に結婚や年齢について聞くのかと。日本のアラサー女性である私から見たドイツは、女性差別に関する部分では問題は山積していてもそれでも日本より全然マシという認識だったのでオーストラリア人のこの発言には驚いたしオーストラリアやべえパネエと震えた。
 日本にいるとつい「欧州」とひとくくりにしてしまいがちだが、少子化対策に成功したフランスと、未だに少子化問題を抱えているドイツイタリアでは文化も制度も全く違うし、美術館を常時無料公開しているような太っ腹すぎる都市はロンドンだけだ。そのイギリスの階級社会というものも、ドイツにいる私にはよく分からない。話す言葉や発音によって階級が決まってしまうという問題も、英仏露などと比べるとドイツ語ではあまりないのではないかと思う。ドイツ語はフランス語やロシア語ほど整備されておらず、また方言も多様だと話すのはこちらで知り合った言語オタクの日本人で、発音の授業がないのはおかしいと繰り返し言っていた。大学付属の学校ならばあるのかもしれないが、ドイツ国内で複数の学校を転々とした私は、通常授業がそのように別れている学校には出会ったことがない。
 このクソ寒いベルリンにもホームレスはいる。支援制度がどうなっているのか分からないが、彼らは新宿の地下街と同じように、ダンボールと毛布にくるまってコンクリートの上で寝る。今年の冬は例年と比べて温かいらしいが先週はマイナス5度6度まで冷え込んでいる。アメリカでは「部屋を何度に保つ」というルールが大家に課せられているらしいがドイツではおそらくそんなことはなく、快適な温度にしようとすれば光熱費が跳ね上がる。原発が止まってから電気代が一気に上がったと聞いた。けれど、むしろそれだからこそ再生可能エネルギーの開発が急務となっていて、郊外に出れば巨大な風車がそこらじゅうに立ち並んでいる。
 看護師や保育士の給与は低いという。「選挙のたびに上げる上げると言っているのに、選挙が終わると忘れてしまう」とメルケル首相を批判したのは私のドイツ語の先生で、また移民の多い美容師の給料も非常に低い。けれどその一方で大学の学費が無料だから、収入が少なくても子を大学に行かせることができるし、貧しい人でも大卒資格を得ることができる。職種によっては残業もあるらしく、仕事探しは困難と聞くが、それでも失業保険が2年まで出て、一日5時間勤務の知人がそれで一人暮らしをしつつ海外旅行に行けているさまなどを見れば、はるかにドイツのほうがマトモだろうと感じてしまうのである。
 それでもドイツで働きたいと思わないのは能力的なことはもちろんだけれど日照時間の短さと風呂。日本の風土が嫌なわけではない、災害も多いがそれでもなんやかんや生まれ育った土地と文化に愛着はある、だから人が、制度が、変わってくれればより住みやすくなってくれればと切実に思うのだけれどそのためにどうしたらいいのか何をしたらいいのか何ができるのか分からない。日本からは嫌なニュースばかり流れてくる。定額働かせ放題法案が通ってしまったこと、伊藤詩織さんについては日本のテレビだけがだんまりであること。
 社会がいいほうに変わってくれるならそれがいちばんいい、そんで日本で生活できればいいと思っているが、悪い方に悪い方に向かっているような知らせばかりが入ってくるので「帰りたいけど帰りたくない」と連日うだうだ唸っている。
 日本に戻ったらとりあえず水村美苗さんの「日本語が滅びるとき」を読みたい。読みたい本がたくさんある。とりあえず一年間の海外逃亡で気は済んだ。改めて日本で腰を据えて、次にすることを考えたい。

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