【つらつら草子⑩】ルームメイト 1

 私がきたときには中国人男性が一人いて、翌週にアフガニスタン人の男性がきて、その後にコロンビア人の女性が来た。最初にいた中国人男性はドイツ語がうまく、英語の話せない私でもなんとか会話ができた。中国で日本企業に勤めていたというその人は、簡単な挨拶程度の単語なら結構知っていた。
 私のあとにきた二人は英語は話せるがドイツ語が話せず、最初はカタコトの英語で名前や出身を尋ねた。コロンビア人の女性の名前は分かりやすくて、国の名前もすぐにわかったけれど、アフガニスタン人の男性の方は名前も出身も聞き取れず、ノートに綴りを書いてもらった。褐色の肌と黒い髪黒い目を見て、トルコ人だろうかと思ったのはトルコ系の移民や労働者や留学生がとても多かったからだが、その人はトルコではない別の地名を言った。私はそれが聞き取れなかった。
 その人はよく私の部屋をノックした。台所の共有品の使い方や、トイレットペーパーは自分で買わなきゃいけないことを説明した。ドイツ語の文法も質問された。私の部屋とその人の部屋は、ドアとドアが向かい合っていて、といっても廊下を挟んですぐなのではなくて、私のドアからそちらのドアに向かって廊下が伸びていて、右手の壁に風呂場とトイレがあった。六月、ハイデルベルクは暑くて、私は風を通すために開けておくと重さで落ちそうなくらい大きくて重たいガラスの一枚窓を開け、ドアに靴を挟んで少し開けておいた。向こうのドアは全開になっていることが多くて、部屋を出ると向こうの姿だけでなく窓の向こうまで見えた。
 いつものように私の部屋をノックしたその人は、自分はムスリムで、今はラマダンだから、夜遅くに台所を使わせてもらう、ということを言った。問題ない、と答えた。来た日からお祈りのような声が聞こえていたので、ムスリムなんだろうなと思っていた。それからようやくノートに書いてもらった地名を調べた。ノートに書かれた単語は「Kabul」で、それがアフガニスタンの首都の「カブール」だというのにパソコンに打ち込んで検索してようやく気づいた。五月の末に大きな爆発があって五百人以上が死傷していた。多分そのニュースはネットで見ていたはずなのに、検索で出てきたそのニュースを見ても、知らなかったと思うぐらいに私の頭の中には残っていなかった。
 その人とはよく顔を合わせた。アフガニスタン出身なんですね、ということを、何度も聞き返されてやっと伝えた。学校でドイツ語を習い始めたばかりのその人は、自分は医者だとドイツ語で言って、自分は難民で難民キャンプにいた、とドイツ語で話した。でも私が難民という単語を知らなかったから、結局グーグル翻訳で日本語に訳してもらった。英語ができないことを謝りながら、スマートフォンで家族の写真を見せてもらった。まるで日本で友達の旅行の写真や子供の写真を見るのと同じように、アフガニスタンで撮られた写真を見ていた。かわいい、美しいとドイツ語の単語を並べる私に、妻と子供はカブールにいる、もう一年も会っていない、それは大きな問題だ、とグーグル翻訳とドイツ語と英語でその人は言った。本当はもっといろいろあるけれど、と言うその人に、語学力のなさをまた謝った。一年会っていないというのが、離れているというだけなのか行方不明なのか尋ねたかったけれど、聞くことがはばかれれたという以前にそれを聞けるだけのドイツ語も英語も出てこなくて、私は「大きな問題ですね」と繰り返した。
 ちょうどそのときのクラスメイトが、軍にいたというようなことを話していた。あとで、その人はジャーナリストで、従軍記者かなにかをしていたらしいということがわかるのだけれど、その時の私は「戦場にいた話をしている」ということしか理解できなくて、兵役帰りかなにかだろうかと勘違いしてしまう。別のクラスで一緒になったロシア人の少年も、国の兵役の話を語っていた。
 学校から変える路面電車(シュトラッセンバーン)の中で、ベルリンと較べて戦争の跡の遥かに少ないように見えるハイデルベルクの町並みや、ここに何十年も暮らしているように見える白人の老人夫婦や、ヒジャブをかぶった女性が双子の乗ったベビーカーを押しているのを眺めながら、アフガン難民とアフガニスタンに派兵されたアメリカ人がドイツの語学学校で同じクラスになることもあるのかと考えた。ジャーナリストの人は私の勘違いで軍人ではなかったけれど、実際にアフガニスタンやシリアからの難民は多いし、アメリカやロシアで従軍していた人がドイツの大学で学ぶために語学学校に来ることはあるんだろう。学校主催のイベントを引率してくれた人はイスラエル出身だと話していた。英語よりもドイツ語が堪能なその人は、私達をハイデルベルク大学の食堂に引率したあと、食堂にいた友人らと何度か抱擁をかわしていた。それを見て、大学生か院生か卒業生なんだろうと思う。
 中村真人さんの「ベルリンガイドブック」で読んでベルリンだけのプロジェクトだと思っていた「つまずきの石」は、空襲を免れて戦争の名残りの見えないハイデルベルクにもあって、この国でそういう事実があったんだと思い出させる。

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