【つらつら草子㉒】駄文

 いま通っている学校は月曜から木曜までで、金曜日は何もないので美術館にでも行こうかと思っていたが、足が完治していないので一日引きこもっていた。天気はよかった。天気がよいと外に行かないともったいないのではないかという気持ちになるが、その一方で「日差しの入る室内で作業をする」という贅沢も捨てがたい、という気持ちにもなる。
 自分の体が一つしかないという当たり前のこと選び取れる時間が一つだけであるという当たり前のことを改めて痛感している。あることを選び取れば別の何かは選べないということ。仕事にしろ結婚にしろ出産にしろ。
 ドイツ語を勉強し始めたきっかけは日本語しか読み書きができない閉塞感が理由だったが遊び遊びの1年程度の勉強量でドイツ語の本が読めるようになるはずもなく、インターネットならグーグル翻訳でぼんやりと意味は理解できるし、仕事に結びつくレベルに達することは困難で、仮に翻訳家レベルの語学力があったとしてもそこから仕事を得て収入に結びつけることはまた非常に難しいと聞き、勉強のモチベーションは瀕死。今はひたすら日本語の本に飢えている。
 日本に戻ったらとりあえず元いた業界に戻って働く予定だが、先日の記事でグチグチ言っていたように日本の嫌なニュースがやたらめったら流れてき、それは間違いなく私のいる業界にも関わっていて、かといって業界全体を変えられるほどの力などあるはずもなく、嫌だ嫌だと言いながらも仕事をすることになるんだろうと将来を見据え、暗澹たる気持ちになっている。Coccoが、エッセイだったかインタビューだったかドキュメンタリー映画だったかで「力がほしい」と言っていたのを思い出す。力がほしい。沖縄を守れるだけの力がほしい、自分には歌うことしかできない、だからせめて歌うけれど、と。前の記事で石牟礼道子さんのことを書いたけれど、311後に行われた石牟礼道子さんと藤原新也さんの対談の中でCoccoの話が出たのが嬉しかった。(今、間違えて藤原竜也と書いたのを慌てて書き直したのだが、石牟礼道子さんと藤原竜也さんの対談を想像して「俺得…!」と呟いていた)Coccoの名前を出したのは藤原さんだったが、Coccoの名前と存在が石牟礼道子さんに伝わったことが嬉しかった。沖縄で歌うCoccoと水俣のもだえ神と呼ばれた石牟礼さんは似ていると思った。どちらも息子が一人いるところも同じだった。
 話を自分のことに戻そう。
 業界の嫌な部分を変えられるとしたら官僚か政治家になるよりしょうがないというレベルの話で「業界が悪い方に変わっているらしいニュース」が流れてくるたびに私はもうゲンナリしてしまう。けれど私の能力はそこでしか生かせない。仕事自体は嫌いではない。望んでなった仕事ではなかったが「嫌いではなくて稼げること」があるというのは非常に幸運なことだったし続けていればスキルにもなるという仕事をド素人の状態から今までやってこられたのは本当に幸運で、食いっぱぐれはしないだろうというぼんやりとした安心感はある。
 けれど、だ。
 都心に10年勤めていた。あと10年同じ生活を続けたら死にたくなる気がする、というのが飛び出してきた動機の一つだったが、日本に戻って、可能であれば雇用形態は変えて、もう海外に飛び出そうという野望も大学に入り直したいという野望も潰えた状態なので、自分に必要な収入や可能な支出のめども立ち、働きながらそれなりの生活ができれば十分なのだろうがそれでそのままあと何十年?と考えるとき、「あと10年同じ生活を続けてたら死にたくなる」と思っていた、渡独前の私が腹のそこで体育座りをしているのを感じる。
 最近、鷺沢萠が生きていたらと思うことが多い。渡独して生活がつらくなりはじめたころ、彼女のエッセイを読みたいと電子書籍を探したがなく、がっかりとした。彼女の小説は実はあまり好きではないのだが、彼女のエッセイは大好きで、小説も彼女の人生がそのまま書かれているような私小説は好きだった。英語に長けて韓国への留学もして、世界中に友人の多かった彼女がなぜ35で自殺したのか分からなかった。そんなに明るい世界にいるのになんで、と。
 雨宮まみさんが40を目前に亡くなったのが自殺なのかそうでないのかは分からないけれど、そのブログにあらわれている不安と苦しみ、それに続く死は私に鷺沢萠を連想させた。
 生きていてほしかったというのは戦っていてほしかったという気持ちでもある。雨宮まみさんには「女」の生きにくさと、鷺沢萠にはおかしくなる日韓関係とこの女性蔑視の尽きない社会と。
「ベル・ジャー」のシルヴィア・プラスは二人の子供を残して30で死んだ。「女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に五百ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」と書いたヴァージニア・ウルフは59で自死してしまう。
 それは例えば「妻に先立たれたのちに自殺するインテリ層の男性たち」とは全く違う死に様だと、私は思っている。
 生きて生きて戦い抜いた石牟礼道子さんが平成の終わりに90で亡くなる。幼少時に入水自殺を試みていたことを、著作か講演録かで読んだ記憶がある。
 
 ベルリンの南西のはずれにあるベルリン自由大学の図書館に入り込んだら、日本語の本の並ぶ一角に日本の家族制度を集めたコーナーがあり、そこに伊藤比呂美のエッセイがあった。ジェンダー関連の本の中には当然上野千鶴子や江原由美子が並んでいて、当たり前だろうが日本のちいさな公立図書館よりもはるかに洗練された品揃えになっていて驚いた。
 自分がその業界で飯を食ってる以上その業界を肯定しなければならない、という言葉を見た。ばかじゃねえのかと思った。それは確かに苦痛の少ない選択かもしれない楽になれる選択かもしれないけれど楽なだけだ、肯定しなければならない、と思っているのならそれは分断に耐えられないお前の脆弱さの現れにほかならない、と思いながらウィンドウを閉じた。
 そうは言っても一年間のドイツ生活という時間を経ても何も得られていない私である。気が済んだ、と頻繁に言っているが本当にそれがいちばん大きい。とにかく、今まで理不尽な理由でできなかった挑戦することすらできず「挑戦したうえで挫折する」という経験を奪われ続けてきた十数年を経て、やれるだけやって自分はこの程度だったと理解して、気が済んだ。
 漠然とした憧れを抱ききらきらして見えていたものが自分にはできないものだということ、できないだけでなくおそらく向いていないしそれを楽しいと思えるタイプでもないということを改めて知った。
 やりたいことといえば小説を書くことで辛いことは小説を書く力がないことで、新しい仕事に手をだすよりはもとの業界で稼いだ方が楽である、業界の状況が悪化しているという事実はそこに歴然とある。
 あと数十年、どうやって生きようか?どうやって生き延びようか?またあと10年働き続けて生き続けて、そのとき私は死にたくなっているだろうか?
 78で初の自伝小説を上梓した水村節子さんのように、75で始めて「発見された」黒田夏子さんのように、平成が終わったその先を、生き延びられるだろうか?

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