【つらつら草子⑦】ゆめのくらしⅡ

 嫁さんがいればもっと自分のケアもできるのに、という男性の発言が、インターネットで少し話題になっているのを見た。そんなの自分でやれという言葉を見て、そのとおりだなあと思いながら、私のゆめのくらしもこの男性のものと同じだと気づいた。
 一日を管理してくれる嫁が欲しい。
 見守ってくれる嫁がいれば頑張れるのに。
 この嫁という言葉は恐ろしいもので、ただの配偶者という意味ではなくて、女性で、なおかつお母さんのような役割を求めている。
 例えばこれが家政婦とかではだめなのだ。朝を始めてくれるだれかは、例えば同じ立場のルームメイトというのも違うのだ。あくまで自分は「婿」で「子供」の立場で、見守りつつ管理してくれる「お母さんのような嫁」が欲しい。
 誰かに管理してほしいという願望は子供のそれだ。もし何かのはずみであの明屋の家で暮らすことができるようになったとしても、祖母がいないあの家で、私は祖母の暮らしを作れない。家事だけを仕事とするにしたって、祖母のクオリティは保てない。そのできないギャップに苦しんで、私が求めていたのは祖母に庇護されている子供の側の生活だったと打ちのめされる様子が浮かんだ。
 近代家族というのがそもそも、誰かを犠牲にして成り立っているのだと、母を見ていてつくづく思う。
 けれど私のりそうのくらしはそれだった。
 骨の髄まで染み付いた憧れの形がそれだった。
 誰かを犠牲にしないと成り立たないそれはマトモな大人の理想じゃないのだ。
 ベルリンで、朝、台所から聞こえる音を聞きながら、考えたのはそれだった。ベルリンの滞在中に、私はまるで三人目の子供のように、お母さんの作った夕飯を食べて、家事の「お手伝い」を喜んでする。
 それは理想の暮らしだったけれど、それは子供の暮らしだった。

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