【つらつら草子⑨】寮の話 2

 四つの個室と共同のトイレとお風呂と台所、それが私の住んでいたところだ。住まいは汚れているわけではないが綺麗でもなく、自分の部屋に入ると掛け布団と枕に染み付いて取れない男性の皮脂の匂いが鼻を突く。ドイツに来てから一度も見ていなかったゴキブリを、そこで何度も見ることになる。ゴキブリといっても日本のような黒々とした大きいものではなく、日本のゴキブリの子供のようなサイズのもので、表面は少し透けた茶色である。行ったその日にトイレの床で潰れていて、台所ではテーブルを走っていた。
 夜、台所の冷蔵庫を開けると冷蔵庫の戸の下あたりにいたのか、ボタボタッと交尾中の二匹のゴキブリが床に落ちた。殺虫剤を買ってきて予防のつもりで部屋じゅうに撒いた。台所と風呂と廊下にも撒いた。畝田の夏を思い出した。日本に戻ったらいい部屋に住もうと思った。部屋の広さは気に入っていた。ベットと棚と机と椅子。私が昔住んでいた日の当たらない部屋ならこれだけでいっぱいになってしまうが、それだけの家具を置いてもまだ開いている。清潔感のないすすけた白い壁、しろい床、開け閉めするのが恐ろしいぐらい巨大な窓に、朝晩の早すぎて遅すぎる日差しをきちんと遮ってくれない赤い鉄のブラインドがかかっている。がらんどう、という言葉の響きがしっくりくるくらいすかすかのその部屋が、それでも私は嫌いではなかった。
 日本に戻ったら広くていい部屋に住もうと思った。二度と危険な思いをしなくてすむようなセキュリティのしっかりした広くてきれいな家に住もうと思った。そのためにお金をかせがなくてはと思った。日本に戻ったら何をしようどこで暮らそうどんな暮らしをしようと考え始めていた。

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