【つらつら草子㉓】ワーカホリックメンヘラ

 語学学校の授業で、「もし~だったらなあ!!」という言い方を学ぶ。「もしお金が沢山あったら、~なのになあ」という文でそれぞれ例文を作って練習をしていく中で、もしお金が沢山あったら仕事は続ける?やめる?という話になる。
 やめる、と言う人もいれば分からないという人もいて、自分はどうだろうと考えている間に話は次のテーマに移り、結局私は答えずに終わった。
 
 正直、今は仕事がしたくてしょうがない。はやく帰国して仕事を再開したい。新しいことに挑戦してみたい。そういう欲が自分の中にあることに気づいて、きっと自分はお金がたくさんあっても仕事をするんだろうな、と思った。仕事をしなくても悠々自適に楽しめる人がいる一方で、自分は仕事によって認められたいと思っている。自分はワーカホリックなのかな、と考えて、ふと気づいた。
 私は単に私の書く文章を誰かに評価してもらいたいのである。映画を見るの本を読むのも友達と遊ぶのも美味しいものを食べるのも楽しい、のだが、ぽかりとある空虚感は常に書き物でしか埋められない何かである。自分の書いたものを見てほしい。自分のスキルを評価してほしい。
 今のところ、前職のツテがあることはある。それがうまくいくかどうかは分からないが、うまくいけば、収入の多寡は置いておいても、何かしら「書き言葉に関するスキル」を買ってもらえる場は得られるだろうと思っている。それを得たいという思いが「仕事がしたい」につながっている。
 もしこのツテがなかったら、自分は「仕事をしたい」とは言っていないのではないかと思う。接客業も食品製造も電話対応もできない人間である。コンビニバイトはあらゆることができてしまうオールマイティーな人間がやることだと思っているのであの低すぎる賃金が解せない。ハードな立ち仕事であるレジ打ちにしたって同じだ。(ドイツのレジは座りっぱなしだし、袋詰もしなければ、客が長蛇の列を作っていても急ごうという気配がない。客としては不満があるが、それが賃金相応の仕事なのだろうと思いながら並んでいる)
 お金が潤沢にあったら仕事を続けるか?という問いに対しては、「私のスキルが活かせる仕事ならやりたいが、その仕事が得られないなら働きたくない」というのが、今のところの自分の答えなのだろうと思う。「それから」の代助の言葉が頭をよぎる。なぜ働かないって、それは僕が悪いんでない、社会が悪いんだ、と。

 頭の中がぐるぐるしているので吐き出しがてら書き綴っているのだけれど、驚くぐらい筆が乗らない。気晴らしで何かしようとしてもそれがうまく行かずに気晴らしにならない、ということは、例えば絵やスポーツでも起こるのではないかと思うが自分の場合は文章である。書くのは好きだがうまく形にならなければ苦しい。何かしらを吐き出したいのに吐ききれない感じだけが募っていき、書いたものを読み返してげんなりする。吐き出しきった文章は読み返しても嫌な気分にはならない。もうこの時点で上を読み返してげんなりしている。何を書きたいんだ自分。
 
 話題を変える。
 カクヨムにあげてみた過去の作品を読み返しながら、悪く無いじゃんと思っている。悪く無いじゃん、と思えるのは今の自分にはもう書けないだろうと思ってしまうからで、悪く無いじゃんという気持ちとぼんやりとした絶望感がが隣り合わせで目の前にある。これが自分の限界だったんじゃないのか。書きたいものはまだまだたくさんあるはずなのに書けない。筆が進まない。もうあれ以上のものは書けないんじゃないのか。
 仕事をしたいと思ってしまう承認欲求は小説創作でもあって、発表場所や読み手が想定されないときの意欲の低さは自分でも自覚していて、逆にそれは「やらなければならないこと」にすれば書けるという強みでもある。読んでくれる人がいた、不特定多数ではなく、明確に読ませたい人がいた。発表する場所があった。そういう場がない状況で、いまここに文字を書き綴っている状況で、また、きちんと一本の作品を作れるかというと、難しいのではないか、という気持ちが沸き起こる。それだからまた「大阪文学学校」とか「文章教室」とかを検索してしまう。「書かなければいけない課題」になれば書けるからだ。質はともかく、書き上げることができるからだ。
 noteにしろなろうにしろカクヨムにしろ、多くの人は不特定多数を対象に書き、完成させ、アップする、ということを続けている。それが自分には眩しく見える。金を目的としないことが尊いという意味ではない、そういうことではなく、自立的に何かしらを書き上げられる、完成させられることが、すごいと思ってしまうのだ。
 仕事でなくても、例えば「本を作る」というグループに所属して上げる、という方法もある。カクヨムにアップした作品の半分がそれで、オンライン上のサークルに上げ、批評しあっていた。そういうものがあれば書ける。ないと書けない。ないと書けないというのは致命的だと自分で思うし、それではもう一生何も書き上げられないのではないかと今ここで駄文をつらつらと書き続けながら思ってしまう。
 
 もう若くもないのだし健康な生活をおくるべきだと常々思っているのだが、久しぶりに真夜中までマクドナルドで読書をして宿題をして、それから帰るというのをしてみたら、締め切りに追われていた学生時代や掛け持ち仕事時代を思い出して楽しかった。以前勤めていた会社の締め切り前、みんなで終電まで仕事をしていたが、それを「こういうのが楽しい」と言う編集者がいて、彼女の言葉に共感する自分がいた。楽しいのだ、あの感じが。締め切り前に右往左往する感じ、修羅場と言われるあの感じ、高校の部活どころではない、中学、いや小学校の舞台の台本を書く、小学校の宿題で物語を書く、そういったことで繰り返し繰り返し行なってきた、あの修羅場感。子供の頃、漫画家にあこがれていて、「修羅場」という言葉にすら憧れていたあの感じ。それが病的なことはわかっているし不健康なこともわかっているのだが、あのハイとローの上がり下がり、一種の麻薬のような高揚感、それを多分自分は「楽しい」と思ってしまっているしあの状況の中でしか、仕事ではない、オリジナルの何かを作るということはできないのではないかと思っている。
 比喩ではなく、毎日吐きながら卒業制作を書いていたころ、年を取ればこんな不安定な感情にならずに小説を書くすべを身につけられるのだろうかと期待していた。締め切り前の会社と違って、まったく楽しくなかった。楽しくなかったが書いているという満足感、高揚感は間違いなくあった。高揚感と絶望感を一日に何度も行ったり来たりして、一日に二度三度吐いた。
 10年近く経って、毎日吐くことはなくなったが書くこともできなくなっている。たまに向き合って書こうとすれば、100グラム50セントで買えてしまう板チョコが一日で3枚消える。変わっていないのである。
 深夜のファミレスでパフェを注文してドリンクバーに何度も行ったり来たりしながら仕事を仕上げて満足感とともに朝日が登る前に帰って寝る。起きて風呂に入る。20代ならまだしも、30代になってあんな不健康な生活はするべきじゃないと思う、それよりはせめて朝イチでカフェに行き、モーニングを食べながら仕事をする、比べるのもおこがましいがマラソンが趣味の村上春樹のように、健康を維持するためにジムに行ってシャワーを浴びる、という生活をすればよいと思うのだけれど、夜中のファミレス、あるいはマックで仕事をやり遂げるあの満足感、白み始めた空を見ながら自転車をこいで家に帰るあの感じ。あるいは、高校の文芸部の小説が書き上がらずに夜通し机に向かい、床に寝そべり、朝も夜もわからないようになって寝て起きて書き続けていたあの感じ。それに変わる何かをきちんと作らなくてはと思っている。思っているのだけれど、今、「仕事がしたい」という感情とともに思い出すのは深夜のフェミレスである。子供の頃に思い描いていた「修羅場」への漠たるあこがれである。
 定額働かせ法案が通りそうなニュースが流れてきて、日本やべえと思っているしフリーランスも多分無事じゃないと思っている、のだが、私は私で「マトモな働き方」や「丁寧な暮らし」に憧れながらそこから転げ落ちたところにいるのだろうと思う。健全な生活、健康的な生活。そういう人間像に憧れているのに、条件が揃ってもそれを実践できないのではないかという予感がものすごくある。
 noteにしろなろうにしろカクヨムにしろピクシブにしろ、その他多くの投稿サイト、個人サイトに上がっている膨大なオリジナル作品を目にするたびにそのバイタリティに目眩がして、羨望する。
 承認欲求で書く作品はだめだと、一方的に私淑しているアカウントがときどき呟いているのを見るたびにうぐうと呻く。発表の場があることがモチベになるということと承認欲求オバケであることと、読まれて褒められて喜ぶということは多分それぞれ微妙に違っているのだが自分の中の感情の線引がどこだか分からず、何のために書きたいの?と聞き始めると延々と深淵に落ちていく。
 カクヨムの作品を読み返して思うのは、承認欲求オバケではあったが、いい子ぶろうとはしていなかったということで、あえて露悪的になろうとしていたわけでもないのに暴力的な内容になっていることに驚いた。
 自分のものの見方の変化が悪いものだとは思っていないが、価値観や世の中の見方が変わってしまった今、このむき出し感は書けないし、書いてはいけないとも思う、それでもう何も書けないような気持ちになる。
 一度インターネットから離れればいいんだろうとも何度も思うが、いかんせん仕事や生活がネットなしには成り立たず、インターネット社会とずぶずぶになっている。たまに舞台に行ったり図書館に行ったりすると、ネットの情報だけではない、五感で得られる情報の多さを感じて、こういうものをもっと得るべきだと感じるのだが、触れる比率が圧倒的にインターネットの方がおおい。そしてインターネットは文字情報だらけである。
 日本に戻ったら田中慎弥の孤独論も読みたい。携帯電話も持たず、インターネットも日常的には使わず、手書きで小説を書いている芥川賞作家である。卒業制作は手書きとガラゲーとパソコンの併用だった。別の作品はスマホのメモ帳と手書きとパソコンの併用だった。noteにあげている文はすべてパソコンのみである。ほとんどはワードで縦書きで書いてから上げているが、この文はnoteに直接打ち込んでいる。縦書きか横書きか、フォントは何にするか。形から入る性格がたたって、そういうのに左右されがちになる。仕事はパソコン上でもできるが紙原稿に赤を入れているときがいちばん充実感が得られる。日本に戻れば、手書きの小説の断片ばかりが大量に入った箱が一箱ある。試みにあれをパソコンに打ち込んでみようかとも思う。数年前の自分から何かしらまた刺激を得られるかもしれない、と期待をしつつ。

 何が好きかと考え続けて結局のところ自分のスキルを活かせる仕事をしたいという方向に固まってしまったものの、日本の労働環境にしろ自分のいる業界にしろ、よい方向に行ってくれるとはまったくもって思えない。飯の種になる文章を書きながら、赤ペンを握りしめながら、その傍らで書きたい物で食えるようになれば最高である。神社や寺に行くたびに、もう何年も同じことばかり念じている気がする。
 書きたいものが書けるようになりたい。満足の行く作品が書きたい。
 そのためには書くしかないのに、まわりをぐるぐる回っているだけである。そうこうしているうちに40、50となってしまう自分の姿が見えるような気がして、ドイツ語の勉強もほっぽりだして、ベルリンの片隅で震えている。

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