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なみだ鼻水



朝礼中に涙が出てきてコントロールできなかった。そろそろ良くない状態かもしれない。
昔から泣くことが多かったから、人前で涙が出てしまうことはよくあって、しかも泣きしゃっくりが発作的に止まらなくなるせいで、1、2時間は平気で泣いていた。
その度に周りを困らせたりするのが嫌で中学になると涙を鼻に落とす癖がついた。

感情が昂ったり、きつくなってもある程度の涙なら鼻に落とし込むことで一旦はじわぁと目元に滲んでも、鼻から垂れてくる。
「鼻が調子悪くて…」といえば、大抵の人は「花粉症かな?」と納得してくれる。
涙が出そうなとき少し辛いと思ったとき「大丈夫?辛かったね」と優しくされると涙が、嗚咽が止まらなくなってしまう。崩れるという表現が一番わかりやすい。まだ無関心や、厳しいあたりの方が我慢できて帰ってから一人で泣ける。
だから着丈に振る舞わなければならない場面で優しいひとに会いたくない。
結局、最後の最後はその人に連絡して声を聞くと崩れてしまうのだけれど。
そんなこんなで、持ち直して仕事のスケジュールを立て直して前へ進んでいけば、感情もそちらへ向くので、傷つくことは少ない。
こういう時はカフェで一息つきながら、生クリームの乗ったココアを飲んで口の中を若干火傷しそうになる一連の動作を楽しむ。
近くでカレーライスを食べる初老の女性がいて、その香りが私のお腹をダイレクトに刺激するから、きゅうと悲しげに鳴く。
先日の誕生日、コーヒーミルかマグカップをプレゼントするのに迷ったという彼の言葉に、できればコーヒーミルが嬉しかったとは言えなかった。大好きな愛犬の写真が載っているから、それはそれで大切にする。
結婚式の引き出物のカタログに、コーヒーミルがなかったか、帰ったら見てみよう。

言葉を綴るのは、誰の為でもなく自分のために気持ちをつらつらと並べる癖がついたからだ。元々、記憶の器が小さい私は覚えることが苦手で右から左へとするする抜けてしまう。新しいことを覚えようとすると一定のキャパシティを超えたところで昔の知識が消えていく。端っこの記憶は、少しだけ残るのだけれど全容が分からないから伝えようがない。知識を蓄え引き出し、使っている人を見るととても凄いことをしている!と感心してしまう。

中学生くらいの時は、忘れないようにと毎朝ホームルームなどでメモをせっせと書いていた。初めは外装がライトブルーのポケットサイズだったのに、メモが書ききれなくなると大きいメモ帳へと移行していった。
ある日、休憩時間トイレに行って戻ったら普段話をしないクラスメイト達が、私の机でメモ帳を開いて覗いていた。
それを見た私は何見てるの?という怒りよりも端っこにあるハナクソみたいなイラストの落書きを見られていないか気になって、見られてたらどうしようと羞恥心に駆られていた。固まる私を見て
「なんだー山ちゃん何書いてるのかと思ったけど本当にメモなんだね。面白いのあるか思ったけどつまんない」と。
きっと私のメモ帳に誰かの悪口や気持ちを添えていたら面白がったのだろう。そんな大事なものを人に見られるものに載せたくなかったから載せないだけだ。きっと鍵つきの日記をつけていたら「メモ帳勝手に見られて、しかもつまんないと言われた。○ね」くらいは書いていただろう。
ただ当時の私は、まだ日記をつける習慣がなかったしモヤッとしたのは覚えている。
そのモヤモヤを言語化して綴るのに6年かかった。継続は力なりというが本当にそうだ。

絵を描くのにもそうだけれど、初めて描く時に自分の想像と描いたものの差にとても落胆する。幼稚園の時に書いたシナモンとサルゲッチュが全然似てなくて悲しくなったがアルバムの表紙になってしまって更に悲しかった。
世の中の絵師さん達が血の滲むような練習を積み重ねて書いてきた成果が、作品になっているのを思うと簡単に「天才だから」では済ませられない。
勿論、才能もあるだろうけれどそれだけじゃないよな。

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