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英才教育を受けずして英才となる

私の父親はボーダーフリーの私立大卒で母親は短大卒、世帯年収600万円程度の家庭で育ちました。
彼らの娘の私は偏差値でいうと70程度の旧帝大医学部卒です。

そして現在、私には2人の娘がいます。

このnoteは、現在親のわたしが「今までどう育てられてきたのか、大人になってから自分のされてきた教育を分析、効果やメリットデメリットを考察、また自分の子供に実践していく」という内容です。
そんな連載にゆくゆくしていくつもりです。
私が受けてきた教育とその末路について書いていこうと思います。
少し長くなりそうなので今回は10歳まで。

親になり育児をしていく中で

これは嬉しかった、役に立った
これは嫌だった、役にも立たなかった

ことについて、今思うことを書いていきます。

さて私は現在33歳なのですが、これまでの人生について
納得しているし満足もしています。
生まれ変わるのなら自分の子供になってみたいとは思うけど、また同じ両親でもいいかなとも思います。


◇幼少期


その時代の田舎にはめずらしく我が家は共働き家庭でした。とにかく貧乏、加えて両親はFランも短大も大学時代が楽しかったゆえ、自分の子供には絶対大学まで行かせてあげたいと、母が働かない選択肢はなかったそうです。

◆体力と外遊び


両親共働き、祖父母家庭は農家と自営業のため、私は生後半年から保育園フルタイムの生活、お迎えは祖母でした。

今でこそ働き方改革も進み、産後も働く女性が増えたためワーママや共働きも一般化しており保育園や急な休みに対応してくれる職場も増えましたが、30年前の日本はそれはそれは厳しかったそうです。

私が熱発して急なお迎え、お休みになると欠勤扱い、嫌味もたくさん言われ、保育料は10万弱。それでも現在の生活と今後のキャリアを断つわけにはいかない母は、私に体力がつけば風邪を引かないんじゃないかと考え、早々にベビースイミングをやらせようと決意したそうです。

祖父が水泳の指導者だったため、その伝手を辿って2歳から見てくれる人にお願いし、週に2回の水泳教室が始まりました。

2歳となったこともあり、だんだんと風邪も引かなくなり、体力もつき、2歳というよくわらかないうちから水泳をさせられていたので水や水着に対する抵抗や恐怖心もありませんでした。

体力は何をするのにも必要だと生きていて痛感します。体力は土台です。
頑丈な土台なくして立派な建物は建ち得ません。
受験の時に風邪を引かなかったのも、そもそも受験という長いマラソンを走り切ったのも体力がベースにあったからこそです。

医学部に入り数々の試験を乗り越えたのも、国家試験の時も体力があってよかったと思いました。
医者になりまだギリギリ働き方改革が言われていなかった頃、当直は2日に一回、土日は常に働けていたのも体力があったから。
妊娠中は34週まで働き、産後は2ヶ月で復帰していたのも体力があったから。
育児と仕事をしているのも体力があったから。(もちろん家族の協力もあります)
論文執筆も当直業務も資格試験も、土日は必ず出かけているのも。今できていることは健康で体力があるから、です。

また私は体育の授業は嫌いだけど運動はそこそこ好きだし上手です。
高校生の頃の体力測定では3年間満点でした。

参照:新体力テスト実施要項(12~19歳対象) 文部科学省HPより

土曜も母親は仕事なので、土曜は主に父親と過ごしていた記憶があります。よく山や川や、車で行く遠くの公園に行きました。父親は虫取りや魚取りが上手で、虫やザリガニを捕まえて飼っていました。野草にも詳しかったので、綺麗な山に登った時には食べられる実を教えてもらいおやつにしたり、食べられる草を摘んで帰ってきて天ぷらにしたりしていました。貧乏なのでおかずがタダなのは正義です。
雪が少ない地域なので春夏秋冬、基本は外遊びをしていました。

これは余談ですが、“1日2時間以上の屋外活動時間を確保することができれば、両親からの近視の遺伝リスクのある子でも、近視になる割合が低くなった”という海外の報告もあります。
ありがたいことに私の現在の視力は両目とも1.5です。視力検査では1.5以上は測ってくれないので1.5ですが、それ以上も見えるので2.0まで見えています。もしかしたら外遊びのおかげかもしれません。

◆絵本


どこへ行くにも車が必須の田舎でしたが、なぜだか村(のちに平成の大合併で市となる)で一番大きい図書館だけは子供の足で徒歩5分のところにありました。母に聞いたところ、週一どんなに忙しくても2週に一度は図書館へ連れて行き、好きな本を選ばせて読んでいたようです。

ただ読み聞かせている時間があまりなかったため、母は文字を早々に教えようと考えました。
貧乏なのでおもちゃが少なく、喋るひらがなのボードをもらった時はすごく嬉しかったことを覚えています。絵本を読んでいて読めないひらがながあるとボードから探してボタンを押すとボードがひらがなを教えてくれます。

おかげさまで3歳までにはひらがなが読めるようになりました。自力でひらがなが読めると好きな時に本が読めるので、祖母の家に預けられた時、おもちゃなど当然ありませんので片っ端から本を読んでいました。
とりあえず本を持っていれば退屈はしないので、待ち時間はいつでも本を読んでいました。

そんなこんなで未就学のうちは昼間は外でよく遊び、隙を見つけては本を読む、それだけで充実して楽しく過ごしていました。


小学校入学後もほぼ幼年期と同じように過ごしていました。共働きなので鍵っ子です。

入学までにひらがなが読めたので教科書はもらったらすぐに全部読んでいました。
田舎でやることがとにかくなく、塾や習い事もないため毎日いかに暇を潰すかを考えていました。

◇学童期

◆通信教育

学校の図書室の本は小学2年生までに全て読み終わり、図書館の児童書は小学4年生には全て読み終わっていました。それほど小学生の放課後は暇で暇で仕方がなかったのです。

学校の宿題も与えたらすぐにやりきってしまう私を見て母は、

・こどもチャレンジ(ベネッセ)
・知の翼(日能研)
・ぴぐまりおん(SAPIX)

を試してくれました。
チャレンジは簡単すぎ、知の翼は絵が嫌いでやらなかった、結果ぴぐまりおんを小学4年生から6年生までやることになりました。

この頃になってくると母も初見では解けない問題が増えてきたため教材が届くと私に渡す前に一通り解いて、解説できるまでうんうん考えたそうです。

ここまで父親は何をしていたかというとモーレツサラリーマンだったため平日帰宅は午前、出勤は始発という時代で休日以外は家にほぼいなかったと記憶しています。
休みの日も朝からわたしをアウトドアに連れ出してくれたので体力があったんだなと改めて尊敬します。

◆習い事


小学生となり落ち着きも出てきたので近所のピアノ教室になんとなく通いました。
たぶんみんな通ってたから、です。田舎では大衆は正義なので。

週に一回30分、7歳から18歳まで通っていました。
今考えると好きでも嫌いでもなかった時間でした。

ピアノの先生は優しくてピアノを弾くことは好きでした。しかしわたしはクラシック音楽がとにかく好きではなかったのです。

ピアノをあんまり好きじゃないと思った思い出は主に母親にあります。

親の声掛けで決定的に最悪だったことは、母の「わたしはサロメちゃんのピアノが好きだな、聞きたいな、なんか弾いてよ」から始まり、仕方なく練習している曲を弾くと「気持ちよく聴いてると時々つまづくからそこで起きちゃうんだよね」といった類の言葉でした。

わたしの哲学に音楽や芸術は、突き詰める業界にいなければ本人が楽しめる範疇で行うことが最も幸福である、ことなので親に言われて渋々弾く音楽しかも文句付き、など嫌いとなる要素しかありません。

それでも嫌いまでにならなかったのは音楽のもつ力が強いからでしょうか。
現在私は地元の医師会のバンドにキーボード兼ギターで参加しています。旅行や少し大きな公園に行く際にはトラベルギターを持って気ままに弾いています。
大人になっても楽しめる趣味があることは人生を豊かにする一つの要素なので、ピアノを習わせてくれたことについては役に立ったと感じます。

ピアノの実力はクラシック音楽はそこそこ練習しないと弾けないけれど、それ以外は大体弾ける、耳コピもできる、程度です。
英才ではありませんが、ピアノがある飲み屋で演奏するとブラボーをもらえたり、子供の歌に伴奏をつけられたりするのでとっても楽しいです。

ここまでは具体的な生活習慣についてでした。
マインド編、友達編、デジタルデバイス編などについて書いていくつもりです。

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