2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」の往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは細谷から金川さんへの書簡でWS六回目(追加回)のレポートです。

金川様

去る8/15に、第6回目のWSを開催しました。
成果発表会に向け、追加WSと称し、参加者の皆さんの日記編集と写真のセレクトの進捗状況の確認や、悩んでいることについての話し合いをおこないました。
(コロナウイルスの感染拡大と大雨の状況を鑑み、参加者の半分はリモートでの参加でした)

作業の進め方についてなど具体的な話が多かったにも関わらず、今回もまた根源を問うような話題がありました。

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一つ目は「見られることをどれだけ意識すべきか」というテーマです。
これは参加者の一人が
「見せることを考えると、写真も文章も減らして読みやすいデザインにしようと思うが、一方で自分の日記を『人に見せるため』に整えようとしていることを茶化したくなる気持ちもある。そもそも日記は読まれることを意識した簡潔な文章ではなく、自分のための長い(まとまっていない)文章であるように思う」
といった趣旨の悩みを吐露してくださったことから始まりました。

私は「読まれたくないものを出す必要はないので、自分で読み返したときに『人に読まれたくない』と思ったところは削った方が良いが、あまり『読む人のことを意識して消す』ということはしなくても良いのではないか。後から自分で読み返したときに、なるべく正確にこの間の記録が残っていた方が良いのではないか」と考え、その旨を伝えました。
が、その参加者は「自分のための記録であるなら、冊子にする必要はなくて、今までつけてきたデータとしての記録があれば充分」と仰いました。
そういわれると、確かにその通りであると感じ(もちろん参加者によってはデータでなくモノとして残したいという方もいらっしゃるでしょうし、そういった方にとっては先程の僕のアドバイスは一つの示唆ではあると思います。ちなみに僕も「モノとして残したい派」です)、
では「なんのために日記を公開するのだろう」と考えてしまいました。

日記を書きながら公開するということのメリットのひとつは「読んでくれている人がいるから、書ける」ということにあると思うのですが、書き終わった日記を公開することのメリットを明確に述べるのは難しいと感じています。
もちろん、過去の往復書簡でも何度かやり取りがあったように、自己開示することで「今自分が抱えている悩みは自分だけのものではないのだ」と気が付いたり、寄り添ってくれる人があらわれたりといった良いことも沢山起こるように思います。一方で、もしかしたらよくない反応もあるかもしれません。そしてその塩梅は、WSにて別の参加者が仰ったように、開示してみたことのある人にしか実感を伴って想像することは出来ないものだと思います。なので、今回はじめて何かをアウトプットする方が、内容を削る(参加者内で公開していた日記よりも成果展で展示される日記の方が文章が少ない)ことになってもそれはそれでよいと思います。
しかし、読まれたくない内容を削るのと、読み手の読みやすさを考えて文章量を調整するというのは意味が違うと思っていて、読みにくくても、書き手の心情や癖みたいなものがそのまま出ている文章の方が、結局は読みたい(引き込まれる)文章なのではないかと思うのです(あくまで「日記」においては、ですが)。

一方、写真は日記とは少し違うように思います。
私は今回の「追加WS」に仮作成した日記本(冊子)を持参しましたが、この冊子作成に際し、日記(文章)はほとんど編集しませんでしたが、写真はかなり変更していて、8月になってから撮影した写真を追加したり、同じ日に撮った写真でもgoogleドキュメントには入れていなかったものに変えたりしました。個々の写真についていうと、レタッチ(色味を変えたり、水平垂直を直したり)はしませんでしたが、トリミングはかなりしました。
写真のレイアウトも、全ての写真を同じサイズ・同じ位置で見せるのではなく、説明的な写真は小さくして何枚かを組み合わせた(さらに言うと、説明的な写真をなるべく無くした)一方、気に入っている写真は大きなサイズで使いました。
ただ、これは私の記録が日記と写真が関連していない日が多かったからで、例えば日記と写真が対応していて、毎日一枚ずつ写真をあげていた参加者は、写真も全て同じサイズで見せたほうが良いなと思っています。
写真は日記以上に視覚的なメディアなので、見せ方はやはり大事になってくると思います。そして参加者の皆さんには、そのときに「どう見せたい」と思うのか、に是非向き合ってほしいなと思いました。

ちなみに私は、パラパラとめくった時の全体の流れやバランスを最重要視してセレクトやレイアウトを行いました。私は写真のプロではないし、すべて携帯で撮った写真なので、一枚一枚の写真をしっかり見せるというよりは、リズムをつくって次のページへと流れていくようなレイアウトにし、そのなかで違和感のない並びになるように見せたいと思いました。このように「写真をどう見せたいか」を考えるのは結構楽しく、参加者の皆様にも楽しんでやってほしいなと思いました。

改めてまとめると、私は、今回の冊子作成において「読み手」に配慮する必要はないが、作者として写真と日記をどう見せたいかは考えるべきと思います。積極的に自己開示してほしいと思う一方、読まれたくない文章や見られたくない写真は抜いた方がよいとも思います。
「自分としてこう見られたい」という、あくまで主体が自分にある視点では読み手のことを意識してほしいが、「こうしたほうが読みやすいのではないか、こういう読み手もいるのではないか」など読み手を主体とした目線で考える必要はない、というのが私の意見です。

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もう一つ、「肩書」についての話もありました。
これは私の「ななめな学校に関係することをしている時間は『ななめな学校の細谷』として振舞っているので、日記には本当の自分を書いているつもりだけれど、どことなく『ななめな学校の細谷』としての人格が現れているため、終わってみると、少し自分とは切り離されたものとしてこの2カ月の日記と対峙できる」という旨の発言がきっかけになりました。
参加者からも「会社での自分と家庭での自分、学生時代の友達の前での自分はどれも違っていて、本当の自分なんていないのかもしれない(相手が受け取った自分が、その人にとっての本当の自分)」という話もありましたし、そういった複数の自分を使い分ける感覚が理解できるという方も多かったように思います。

この話とは直接はつながらないかもしれませんが、今回のWSにおいて(全員が日記を書いていたからなのか、参加者がたまたまみなさんそういう方だったのかわかりませんが)、日記に書いてあることだけから相手のことを判断したりわかった気になったり共感したりするようなことは無くて、みなさん「日記に書かれていないところにたくさんの真実があるから本当のところなどわからないのだ」という前提に立ったうえで、(それでも)日記に書かれていることを読んで相手の気持ちに寄り添ったり心配したり受け入れたりされていて、それが本当に優しかったですし、嬉しかったです。
WS開催前に「共感はいらないが、共感できないことを理解しあえる(理解しようと努力する)場にしたい」と書きましたが、まさにそういう場になったと思います。いま、(成果発表以外の)全てのWSが終了しましたが、こういった空間を金川さんと参加者の皆さんと作れたことが心から嬉しく、このWSを開催できて良かったと感じています。

成果発表展は8月28日からギャラリーいなげにて開催されます。初日の17:30~はオープニングトークもあります。是非多くの皆さんにお越しいただけたら嬉しいです。
ななめな学校 成果発表会&特別公演プログラムのお知らせ | ななめな学校 



さて、最後にもう少しだけ書きます。第4回と第5回のWSのレポートにて、写真はインプットなのかアウトプットなのか、と書きましたが、このWS中に私が撮り、冊子に載せた写真はそのほとんどが街中でたまたま出会った風景の写真です。誰かにお願いされて写真を撮ったわけでも、最初から「〇〇を撮ろう」と決めて撮影したわけでもありません。もちろんこのWSが始まってから「何か撮りたいと思わせるものはないか」と散歩したりランニングをしながら(時には運転中も)探していたので、そういった風景を普段より視野を広げて見つけようという努力はしていましたが、ぐっとくる風景に出会えるかは偶然であり、「自分で見つけ出した」というよりは「たまたま出会った」という感覚が強いです。この「自分で見出そうともしているけれど、風景に撮らされているようでもある」何とも言えない感覚を表現するのは難しいなと思っていたのですが、ふと最初の書簡で「中動態」という概念についてやり取りしたことを思い出しました。

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『芸術の中動態』(萌書房・森田亜紀著)にて森田はメルロ=ポンティの『眼と精神』から
“画家の役目は、自分においておのずと見えてくるものを囲い込み、投射することにある”
という一説などをひき、
「彼(メルロ=ポンティ)が言い当てたかった知覚は―中略―主体の対象へのはたらきかけではない知覚、主体によって一方的に引き起こされるのではない知覚、―中略―、主体や客体という項に先立って、まずおのずと生じてくる知覚である。」
と記しています。そしてこの「主体―客体、能動―受動を超えた自然な展開、おのずからの成り行き」を中動態と呼んでいます。

今回このWSを通して毎日写真を撮ろうとしたことで「写真は中動態である」ということを身をもって体感しました。
「誰かに頼まれて撮った」(ex、誰かの記念写真を撮ってあげるとき、その行為は受動的である/正確に言えば、フレーミングやシャッターを押すタイミングは撮り手に委ねられるので完全に受動的とも言えないところが難しいですが…)わけでも、「最初から撮るものを決めていた」(主体的、能動的な)わけでもなく、まさに能動―受動を超え、ふと気になった風景と出会った際におもむろに携帯のカメラを起動し「おのずと写真を撮る」という行為が考えれば考えるほど不思議で、「写真を撮る」ことの面白さを再発見することができました。
(※ちなみに森田は「作品ができた」というような中動態の言い回しは事後的に「私が作品を作った」と能動態で言い換え可能であることにも言及しています)


あと少し、成果発表展までよろしくお願いいたします。

2021 08/18 ななめな学校ディレクター 細谷

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金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)

▼千の葉の芸術祭

▼ななめな学校WEB


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