2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」の往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは細谷から金川さんへの書簡で、WS三回目のレポートです。

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金川様

昨日は3回目のWSでした。

今回は「おたがいの日記について語る」というテーマで、少数のグループをつくって参加者同士でお互いに日記の感想を言い合いました。

その際のテーマとして、この2週間の参加者の日記の内容を踏まえて
・何のために書くのか
・「日記なんて残しておくべきではない」という言葉について
・他人に開かれている日記とは(日記は閉じられたものなのか)
・「発表する=自分のものでなくなる」

という「問いを持つこと」を金川さんが設定しました。
ただ、これらについて答えを出す必要はなく、金川さんも明快な答えを持っているわけではないし、これらについて話し合うというよりは、もう少し自由にお互いの日記の感想や、日記を書きながら抱えている悩みを、グループごとに話しました。

私もグループに入って皆さんの話を聞きましたが、いくつか感じたことがありました。

一つ目は、日記には書かなかった(書けなかった)けれど、この場なら話せることが沢山あるのだなということです。最終的に成果発表会をするので、その場で参加者以外の人の目に触れる可能性があるということも書く内容が制限されている理由の一つだとは思いますが、それ以上に同じ言葉であっても「文字」と「会話」の違いが大きいように感じました。同じ10人に対して同じことを伝えるにしても、日記に書く際は「自分の言いたいことが正確に伝わっているのかわからない」という恐れが、心の中の一番深いところ(「どろどろしたもの」と表現されていた参加者もいました)を書くことを自制させる。一方、聞き手が目の前にいると、相手の反応がすぐにわかるので(そして今回の参加者が、それぞれの生き方や考えを受け止めてくださる方ばかりなので)、もう少し踏み込んだ話もついついしてしまうのかなと感じました。

二つ目は社会一般の、目に見えないぼんやりと(しかし、それぞれにとってははっきりと)した「正しさ」のようなものを気にして生きていらっしゃる方が多いのだなという気づきでした。それは「見た目」にしてもそうだし、「正しい」妻、母、父といった肩書を意識した振る舞いや恋愛の仕方(パートナーとの在り方)などもそうです。これについてはいろいろなことが思い巡り、まだ全く整理できていません。色々考えすぎて「資本主義がいけないんじゃないか」というところまで来てしまいました(風が吹けば桶屋が儲かる的な変遷を経て笑)。そして「言葉は危うい」とも思いました。
本当に色々なことを考えたのですが、前者についてものすごく簡単に説明すると、「一般的な」お母さん像やOL像(や可愛さ像)がどうやって決まっているのかと考えたときに、それは「マーケティング」によるんじゃないかと。「マーケティング」によってあぶり出された「理想の〇〇像」に近づける商品(見た目もそうですし、例えば「この商品によって特定の作業が時短になる」などという機能的なものも)が最も売れる商品で、そのことを表すCMが何度も流布されることで、元々は全く思っていなくても「世の〇〇ってこういうイメージなんだな」ということが刷り込まれていくのではないか、と思いました。
勿論、それだけでない様々な理由があることはわかっていますし(本当にいろんなことを考えました)、「みんなと同じ」を求める時代から「人と違う」を求める時代へと変わってきているようには思いますが(とはいえ、SNSなどでタピオカ、レモネード、地球グミなどがものすごい勢いで熱して冷めるのを見ているとそうとも言えない気もします… 余談ですが、YoutubeやTikTokは「流行りに乗った方が再生回数を稼げるメディア」とも言われていますね…)、ともかく自分の属する肩書の「正しさ」みたいなものを意識している(しかも、自分も「正しく」したい意識というよりは、自分がその「正しさ」から外れていることへの引け目や外れていることに対する他人の目を意識している)方が思ったより多いのだなという感覚をうけました。

三つめは人によって日記への時間の作用の仕方が異なっていることが面白いなと思いました。これはシンプルに、当日書いた日記を数日経って見直した時に「あの時は公開して構わないつもりで本心をたくさん書いたけれど、改めて見るとこれはさらけ出せないなと削除した内容がいくつかあった」という方と「公開できない範囲と思って書いていたことが、数日たって見直したら、公開してもいい気分になった」という方がいらしたことです。どちらも本人にとって面白い感覚だったのではないかと思いましたし、少し時間が経ってから再度ジャッジできる状況は残しておいた方が良いのだろうなと思いました。金川さんの問いの中に「発表する=自分のものでなくなる」のか、というものがありましたが、もしかしたら時間がたって過去のものになるだけで、少しだけ「自分のもの」では無くなっていくのかもしれないとも思いました。

四つめ、これは自分を鑑みての気づきですが、やはり何かしらのカタチで自分の一部を公開するということは大事なのかなと感じました。今まで、金川さんのおっしゃる「自分のことを語り、公開する」ことの重要性を肌感覚としてはあまりわかっていなかったんだなと。そしてそれは、僕は仕事で自分のアイデア(ひいてはその背後にある思想や生き方)をお客さんにぶつけることができますし、そういったアイデアをもう少し範囲の広い方々に見てもらう機会もあるからなのかなと考えました。仕事におけるアウトプットは日記ほど赤裸々ではなく、うまく嘘をつけたりもするので少し違うかもしれませんが、無自覚に自分のことを開示していたからこそ、「自分のことを語り、公開する」ことにそこまでの重要性を感じていなかった、と同時に、開示していたからこそ保たれていたバランスがあったのかもしれない、と参加者との会話の中で気づかされました。

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最後に、「身近な人には話せないことをこの日記に書いている」という方が多いことを感じました。よく知らない相手だからこそ話せることがあるというのはとてもわかるし(旅先でたまたま出会った見ず知らずの人に自分の深いところまで思わず話してしまった経験を思い出しました)、そういう場になって良かったな、そうなったのは参加者の皆さんのおかげだなと最初は思っていました。

が、ふと、そういった場って作ろうとしても作れないし、とても貴重なんじゃないかと気が付きました。そんなことにはまったく無自覚にこのWSを始めましたが、自分のことを詮索されず語りたいことだけを語ればよい、けれど、お互いの顔もちゃんと見えていて、直接話すと日記に書いた以上のことも話せてしまう場なんて探し求めたってどこにもないのではないかと。なので、足並みを揃えての「書きながらのweb公開」はせず、この貴重な場をもう少し維持していたいと思っています。


一方で、幅広い目に触れる状況になったら書くことや写真に変化はあるのかを試したかったり、シンプルにWS参加者以外にも自分の日記を読んで欲しいという方の気持ちは大切にしたいので、次回レポートに何人かの参加者の日記のリンクを載せてもいいかなとも思っています。

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最後にもう一つだけ。

今回、早退された方と遅れてこられた方がいらっしゃいましたが、どちらもとても嬉しかったです。お二人とも事情は違いましたが、このWSが生活の一部になっているのだなと感じられたのがとても嬉しかったのです。皆さんこの場を大事に思ってくださっていて、「少しの時間でも参加したい」と思ってくださっていることがまず嬉しい。と同時に、いい意味で、何かを犠牲にしてまで肩肘張って来ないといけない場にはなっていないというか、ちゃんと生活のなかに位置付けられている感じがあって、このWSの在り方として、それはすごくいい在り方だなと思いました。勿論、ほとんどの方が3時間の長丁場にお付き合い下さって(今回は少しだけ延長戦もありました)、毎日日記と写真をつけて下さっていることはとてもとても嬉しいです。


金川さんの視点での感想も是非お聞かせください!

2021/07/04 ななめな学校ディレクター 細谷

■ひとつ前の書簡はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)

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