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「ブルートレイン」の思い出

子供の頃、私は「喘息持ち」だった。
今は東京の空気もだいぶ綺麗になったし、とても良く効く薬もあるようだが、私の子供時代、1970年代の中盤から80年代初頭にかけての頃。
まだ高度経済成長の頃の残滓が感じられる頃の事だ。

小児喘息。
一度発作が起きると、自分の気管がゼーゼー、ヒューヒューと鳴り、息が苦しくて夜も眠れない。
殊に空気が冷たくなる秋口になると、よく発作を起こして床に臥せっていたものだ。発作がひどい時には、入院もした事もある。

そんな私に、母はよく図書館から「でんしゃのほん」を借りてきては、読ませてくれたものだ。

「でんしゃのほん」。それは絵本のようなものから、子供向けの図鑑、あるいは「鉄道ファン」のような大人も読む趣味誌までさまざまであったが、子供心に目が惹きつけられたのは、日常的に見ることができる国電や私鉄電車ではなくて、「遠くに行く時に乗る列車」たちの写真やイラストだった。

クリーム色の車体に、真紅の帯を巻いた、北の国へ向かう特急列車。
ローズピンクにクリーム色の、日本海側の幹線を走る急行列車。
蜜柑色に深い緑色の湘南電車。その湘南電車とすれ違う、砂色と海の青色をした横須賀線の電車。
そして、夜のターミナルに集う、藍色に白い帯を巻いたブルートレイン。

比較的、発作が軽くなる昼間に、私を慰めてくれたもののひとつは、本の中で紹介される、こうした列車たちの姿であった。

「大きくなったら、これに乗って遠くへ行ってみたい」

そういう希望みたいなものが、喘息の発作に立ち向かうモチベーションになっていたと言えば、大袈裟だろうか。

そんな子供時代に読んだ「でんしゃのほん」で、とりわけ印象に残ったのは、「24時間以上かけて終着駅に向かう列車がある」ということだった。
東京駅から、遠く九州の西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)を、日豊本線経由で結ぶ「富士」号がそれである。1978年当時のダイヤによると、東京駅を18時に出発した「富士」は、翌日の18時26分に西鹿児島駅に到着する。
終着駅まで24時間以上かけて走るということは、今日の「富士」が東京駅を出発した段階で、まだ昨日の「富士」は終着駅の西鹿児島駅まで辿り着いていないということなる。

終着まで24時間以上かかる寝台特急。
本の中では、青い客車を10両以上も連ねた「富士」の華麗な編成美、牽引する機関車の勇壮な姿、食堂車やB寝台に集う楽しげな乗客などの様子が写真で紹介されていたのだが、とりわけ印象に残ったのは、個室A寝台車でひとりくつろぐ妙齢の女性客の姿であった(もちろん、編集サイドで用意したモデルさんなのだろう)。彼女は、24時間以上かかる旅路を、時に車窓を眺めながら、時に食事をしながら過ごし、朝になればテーブルの下にビルトインされている洗面台を使って歯を磨いていた。

そうだ、大人になったら、「富士」の個室A寝台に乗るんだ。

彼女は、数葉の写真で、病の床にいる少年に、「汽車旅」の優雅さや楽しさを教えてくれたのだった。

「男の子は、生まれてから一度は、鉄道を好きになる」

というような言い回しをどこかの本で読んだ記憶があるが、言い得て妙であろう。そして、そうした男の子の中の、ほんの一握りの子は、鉄道が好きになったまま大きくなる子も、いる。

* * *

高校、大学と、男子が人生で一番色気づくであろう時期に、もっとも異性と知り合う機会が少ないであろう「鉄道研究会」に所属するというスパルタンな青春時代を送った私であったが、それは丁度「国鉄」が解体され「JRグループ」として再スタートを切る時期と重なっている。
あの頃は、とかく「士族の商法」的に叩かれていた国鉄のサービスが、民営化と共に一気に良くなり、それでいて国鉄時代の輸送・料金体系が維持されていた時代であったから、とにかく旅行に行くにも「質より量」といった感じで、若さに任せて数日「車中泊」をすることもしばしばであった(今なら絶対体力的に持たない)。とにかく仲間と全国各地を列車で巡り、各地で旨いものを食べ、呑み歩くというスタイルの旅行が主だったし、バブル期とはいえ、自分のバイト代で九州行きのブルートレイン、それも個室A寝台でゆっくり旅行するなどということは、まだまだ「高嶺の花」であった事は間違いない。

そして時は巡り、私も社会人となって、いつしか役職もついた頃。
ある地方都市の支店から、本社の、比較的に出張の多い部署に転勤となった私であったが、2002年の初夏のある日、「九州行き」の出張予定が入る。それも、金曜日、朝イチで福岡に入り、16時には業務終了になるという。

もう、そろそろ、個室A寝台に乗っても良い頃かな。

果たして、東京駅の「みどりの窓口」で手にした、寝台特急「はやぶさ」。鳥栖から東京までの、個室A寝台のチケット。
会社の旅費規定に反しないよう、寝台券と特急券分は、自腹で払う。
けれど、それが逆に『大人の階段』を登ったようで、嬉しかった。

出張当日、恙無く業務を終えた私は、博多駅から一旦鳥栖駅へ鹿児島本線を下り、熊本からの「はやぶさ」を待ち受けた。わざわざ鳥栖まで行ったのは、長崎からやってくる「さくら」との併結作業を見たかったからだ。

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(写真上)
長崎からの「さくら」が隣ホームに一旦到着。一旦博多方に引き上げた後、転線して「はやぶさ」に連結するため逆走してくる。
(写真下)
手前が「はやぶさ」、奥が「さくら」。機関車に押されて、手前側に近づき「はやぶさ」に連結される。

連結作業を一通り見物してから、いよいよ今夜の宿となる、「はやぶさ」の個室A寝台へ、いざ。

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このドアを開けると、

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あの少年の日に、「でんしゃのほん」で見た、あの個室が広がっていた。
確かに日本最長の運行区間を誇った「富士」」ではなくて、兄弟列車ともいえる「はやぶさ」だし、あいにくと寝台の向きが進行方向と逆になる部屋が当たってしまったけれど、もうそんな些細なことはどうでも良くて。

個室A寝台の客になる。
あの日の、喘息の少年が、ようやく「オトナ」になった事を実感した一瞬だった。

思うさま、ビール片手に駅弁を食べ、車窓を愉しむ。

関東に住んでいると、初夏から盛夏にかけての、九州の「日の暮れなさ加減」にはきっと驚くことだろう。天気が良ければ、19時でもまだまだ明るい。この日も博多駅を出発して、多々良川を渡るあたりまで、暮れなずむ福岡の車窓を満喫できたような気がする。
もちろん、日が沈み、夜になれば個室の照明を落として、真っ暗な室内から夜景を愉しむこともできるし、枕もとの灯を点けて、読書を愉しむこともできる。この夜、読んだのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」だったか。まだ私が中堅社員として夢と希望に燃えていた頃の、思い出話である。

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個室A寝台は、空調や照明についてはこの壁面に設けられたスイッチやつまみで、全て乗客の好みで設定できる。

* * *

その後も、この部署にいた8年間で、九州への出張は割合多く、スケジュールの許す限り、寝台特急での移動を行ったものだった。初めての個室A寝台乗車から3年後のある日、今度は大分から「富士」の個室A寝台で帰京する機会を得た。

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大分駅で出発を待つ、ED76形電気機関車牽引の「富士」。交流専用の「赤い電気機関車」に牽かれるブルートレインは「関東者」には新鮮な光景。

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寝台特急「富士」号の客車。まさにあの頃読んだ本に出ていたとおりの姿。

そう。私の中でのブルートレインの真打は、やはりあの日の本で読んだ、「富士」だった。確かに、今となっては「富士」も西鹿児島始発ではなくなっていたし、食堂車も連結されていない寂しい姿ではあったけれど、それでも東京〜九州間のブルートレインに始発から終点まで乗り通す、それも個室A寝台での旅。これは未だに、私の中では一番感慨深い「汽車旅」の記憶なのだ。

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カタン、コトンという軽い線路のジョイント音が聴こえる車内。
さしあたり、好きなお酒と、食べ物と、文庫本がある。そして明日になれば目的地に着く。こんな贅沢な時間の過ごし方があるだろうか。

* * *

そんな東京と九州を結ぶブルートレインも、車両の老朽化と利用者の減少を理由に、2009年3月を以って廃止になってしまった。

考えてみれば、当然のことかもしれない。

私が喘息に苦しんでいた70年代から80年代の初頭は、飛行機での旅行は今ほどカジュアルなものではなかったし、新幹線も東京から博多まで6時間以上の所要時間を要していたし、ビジネスホテルも今ほどの軒数はなかった。
だから寝台列車も旅行の選択肢として十分魅力的なものであり得たし、確かにその当時、ブルートレインは「汽車旅」のフラッグシップだったのだ。

だが、当時の「国鉄」は、1973年から製造が始まった24系25形を以って、その後寝台特急用の新しい車両型式を製造することは無かったし、それはJRに移行してからも、一部のクルーズ・トレイン用の車両を除けば、やはり製造されることは無かった(「カシオペア」用の車両も、その後の身の振り方を見れば、将来的にクルーズ・トレイン的な運用への転用を考えていただろう)。鉄道車両の寿命は「概ね30年」と言われる中で、1970年代生まれの車両が、それも片道で1000kmを超える非常に厳しい使用環境にある車両たちが、後継車も無いままに使われていたということは、即ちブルートレインというものが、2000年代の初頭には姿を消すということがかなり以前から運命付けられていたことになる。

そういう意味で、子供の頃に本で見て、憧れていた列車に大人になってから乗ることが出来た、ということは、それなりに幸せなことなのかもしれない。

時と共に、いろいろなものが便利になる。
それ自体は決して、悪いことではない、はずだ。

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2004年冬、下り寝台特急「さくら・はやぶさ」号のロビーカーにて。
瀬戸内海の朝焼けは、ひたすらに綺麗だった。
今となっては、もうこの光景を寝台特急の車内から見ることはできない。

今の子どもたちにとって、憧れる列車とは何だろう。
例えば、東北新幹線を走るE5系のグランクラスとか、あるいはクルーズトレインの「TRAIN SUITE 四季島」や「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」、あるいは「ななつ星」だったりするのだろうか。

きっと、あの頃の私のように、本で、あるいはインターネットで、これらの列車や、あるいは別の列車の事を知り、いつか大人になったら乗ってみたいと思っている少年少女たちは、きっとたくさんいることだろう。

いつか、そんな彼、彼女たちの思いが叶うことを祈りたい。
そう、その列車が走っているうちに、その機会が来ることを。

(了)

※2020年7月5日追記:
本文中に、「JR化以後も、寝台特急用の新形式は製造されていない」旨の記述がありますが、正確にはこれは誤りで、「サンライズ瀬戸・出雲」用の285系電車の事を失念しておりました。
本文で筆者が記述したかったのは、あくまで「寝台特急用客車」の事であり、「24系25形の後継となるべき寝台客車は製造されなかった」という趣旨ですので、その点ご了承くださいませ。

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