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第3話 二度ないことも三度目の正直

『ピッ……ピッ……ピッ……』


 機械的な、冷たい音がゆっくりと鳴っている。

 果たして、私はこの音を今、自分の耳で聞いているのだろうか。あるいは、記憶に焼き付いたそれが、頭の中で反響しているのか。

 金縛りは、起きたまま体が動かなくなるのではない。本人は眠っているのに、起きていると錯覚して、体が動かなくなる夢を見ているのだ。

 そう、孫が得意げに話すのを聞いたのはどれほど前だろうか。指先一つ自由にならぬまま、ぼんやりとした視界の中、病室の天井を見上げているこの状況も、金縛りのような夢なのか。
 何事か騒ぎながら慌ただしく行き交う医師達の足音も、必死に私の名を呼ぶ娘の声も、腕に縋り付く妻の腕の感覚も、全て、すべて、夢なのか。

 そう思えたなら、どんなに良かったことだろうか。

 還暦を迎えた頃にふと、別れは案外遠くないものだと感じるようになった。知り合いは一人また一人と倒れ、体と髪は枯れ逝く樹木のように、盛ることなく衰えてゆく。
 先達は順繰りにいなくなり、数の減った年賀状を検める度、木枯らしのように寒々しく寂しい別れの気配が、一歩ずつこちらへ近付いてくるような気がしたものだ。

 そうは言えども、世間は「人生100年」と謳うような時代である。まさか自分の身に、しかもこんなに早く降りかかるとは露程も思っていなかった。
 救急車のサイレンを聞きながら、私は自らの描いていた別離の情景が、如何に手緩いものであったかを思い知らされた。私は初めて死というものを、いつか訪れる遠い現象ではなく、紛れもなく身に起こる現実として、目の前に突きつけられたのだ。
 数ヶ月前の出来事である。

 それから、病床で私の意識は浮上と沈下を繰り返していた。時折覚醒することもあるが、大抵の時間、私は水中を漂っているような茫洋とした意識の中に在る。青白い天井を眺めながら、規則正しい電子音に混じって、不明瞭な人の声を意味も分からず聞き流している。
 起きているのに目覚めていない、そんな時間を、延々と過ごしていた。

 しかし、今日の私の状況はこれまでのどれとも違った。

 目が覚めた時、病室には誰もいなかった。
 もちろん、家族も看護師も、私一人に構っていられる訳ではない。人がいない事自体は別に妙ではないが、お陰で異変に気が付くのが遅れた。

 私はまず、ベッド脇の小机にあるデジタル時計を見て、今日の日付を確認しようとした。私が目を覚ます度に現在の日付を聞くので、自分で確認できる様にと娘が持ってきたものだ。時刻が大きく表示された下に、日付と気温も表示されるようになっている。
 私は首を捻って時計の方に目をやるが、どうにも焦点が合わず、時計の数字が読み取れない。元々、老眼の私が辛うじて見えるような場所に置いてある時計だ。寝惚け眼で見えにくいのだろうと、私は時計を手に取って日付を見ようとした。

 だが、腕が上がらない。普段無意識にやっている調子で手を伸ばしたつもりだったのだが、腕は時計に届かず、それどころか、手の先がなんとかベッドの外に飛び出す程度にしか動かない。
 奇妙に思い、腕に力を込めるも、腕の先が僅かに持ち上がるかどうかといったところだ。「おかしいな」と口に出そうとすると、今度は声が出ない。呻き声のようなものが微かに捻り出されるだけだ。

 そうやって、体に起こっている異変が露わになるにつれ、私は自分が目覚めた理由に気が付いた。全身を、激しい痛みが襲い始めたからだ。
 正確に言うならば、その痛みは恐らく目覚める前から私の体を蝕んでいたのだろう。だが、私の体は、命を脅かす痛みにすらすぐには気が付かないほど衰えていたらしい。
 私が目を覚ましたのは、体からのなけなしの救難信号だったのだ。

 脂汗が吹き出すのを感じながら、私は無我夢中でナースコールの端末を探り当て、ボタンを押した。
 側から見ればたかだか十数センチメートル腕を動かすだけだが、私にしてみれば乗用車でも持ち上げる様な心地である。ボタンを押すために指先に力を込めるのがこれまた苦労を要し、何時間にも思える格闘の末、ようやく私は看護師を呼び出した。

 ナースコールの通話越しに、まともな応答ができない私の様子を察知した看護師は、血相を変えた様子ですぐに向かうと告げた。彼らの到着を待っている間にも、痛みはどんどんと増していくように思える。
 ベッドの縁に縋りつき、恥も捨てて叫びたい程だったが、自由にならない体は痛みを紛らわす事すら許さない。


「大丈夫ですか?!声、聞こえますか?!」


 耳元で大声が聞こえ、私はいつの間にか医師や看護師に囲まれていた事に気が付いた。
 私の肩を叩いて呼びかける看護師に、なんとか返答しようと試みるが、相変わらず喉からは「はい」だか「いいえ」だか分からない声が出るばかりだ。せめて頷こうにも、あまりの痛みに平衡感覚はどこかへ行ってしまい、きちんと頷けているかも分からない。
 物寂しかった病室の空間は大仰な機械に占領され、あちこちで緊張した声が飛び交っていた。

「意識レベルが……」

「……の準備を、急いで……」

ご家族に連絡を……」


 断片的に聞き取れる言葉は、いずれも私の状態が危険である事を告げている。医師達が懸命に何かの処置を施しているだろうことは分かるのだが、どれもこれも痛みにかき消されてしまい、何をされているのかは分からない。
 何でもいい、何を使っても良いから、早くこの痛みを止めてくれと、私はそればかり考えていた。

 そうして格闘しながら、どれほどの時間が経っただろう。
 医師の懸命の処置のお陰か、体の痛みは徐々に引き始める。ようやく救われたような心地になったのも束の間、今度は別の恐怖が現れた。

 感覚が戻ってこないのだ。

 あまりに体が痛い時には、耳が遠くなったり、視野が狭くなったりする。感覚が痛みによって追いやられていたり、体の緊張によって血流が妨げられていたりするためだ。感覚そのものが失われている訳ではなく、追いやられた感覚は、痛みが和らげば自然と元に戻ってくる。

 しかし、痛みの中でぼやけた目も、上手く言葉が聞き取れない耳も、一向に元に戻る気配はなかった。

 それどころか、それまで痛みの合間に感じられていたようなもの、行き交う人影の色や背に当たるシーツの感触までもが、痛みと共に薄れていくような気さえする。体は相変わらず自由に動かせず、冷静に回る思考とは裏腹に、私の感知する世界は段々と曖昧さを増していく。

 妻は連絡を受けて随分と早く駆けつけたようで、かけられる言葉の全ては分からないにしても、彼女が私の思っていた以上に私を案じてくれていたことを痛切に感じた。
 やや遅れて、娘達が孫を連れて病室になだれ込んで来る。娘もまた、悲痛な声で私の名前を呼んでいるようだが、制服を着たままの孫は、どうしていいか分からないのか、入口の近くで立ち尽くすばかりだった。

 いつしかすっかり痛みの引いた体には、代わりにぼんやりとした霞の如きものが詰め込まれたような気分だった。まるで他人の体に間借りをしているかのように、私の精神は身体と切り離され、世界から遠ざかる。あらゆる物が彩度と輪郭を失う中、心電計の音だけが妙に明瞭に頭の中に響いていた。

 そして、冒頭に至る。



『ピッ……ピッ……ピッ……』


 処置が落ち着いたのか、それとももう為す術がないのか、医師達の動きも無くなった。呼びかけに疲れたのだろう、家族が名前を呼ぶ声も止み、時折すすり泣きが聞こえる程度だ。
 私は体のあちこちに力を込め、動かしてみようと試みていたが、まるで沼に杭を打つように手応えがない。今や天井を見つめる眼球を動かす事すら叶わなかった。

 心電計の音は私の鼓動に合わせて鳴っているはずなのに、無機質な電子音は死の足音のように、一つ鳴るごとに死が近付いてくるような錯覚を抱かせる。足音は急ぐ事も焦らす事もなく、着々と私の方へ歩いて来る。

 病室はすっかり静まり返っていた。家族のすすり泣きも、点滴の落ちる音も、私の呼吸と共に静寂に沈んでいる。ただ心電計の音だけが、無感情に時間を切り取っていく。世界が他の全てを置き去りにして、段々と遅くなる音に向かって尖っていく。


『ピッ…………ピッ…………』


 死とはこんなにも静かなものか。

 家族の声も、医師の努力も、私自身の感覚でさえ、そこに有るという事が分かっているだけで、それ以上の実感も感動も伴わない。別れを寂しいと思うだけの力すら、体から失われてしまったのか。

 音以外の全てが、世界から切り落とされていく。

 もはや、それが何を意味する音だったかも分からない。

 ただ、音が鳴っている。

 音が、鳴って……。


『ピーーー…………』


 そして、鼓動が止まった。


 いや、待て。
 何故私がそれを認識しているのだ?
 起伏のない長い電子音は己の命の終わりを告げるはずのものなのに、私は何故か、自分でそれを聞いている。

 そして音の意味を理解した私は、唐突に焦りと恐怖に襲われた。
 まだ、家族に別れも告げていなければ、身辺の整理も手をつけていない。そんな事を急に思い出したのだ。しかし焦ろうにも、体が動かない事にもどかしさを感じる。

 そうだ、もどかしさを感じる。感覚が戻ってきているのだ。


「心臓……動いて……」

「外からが……」

「……喧嘩……神様……?」


 耳の端で微かに、意味のある言葉が聞き取れる。冷え切ってなお体温が失われてゆく体の中で、何故か太腿の一部だけが暖かい。まるでそこにだけ、春の晴れた日の日差しが直接差し込んでいるかのようだ。


「患者さん……改善しません……」

「動きが安定しない……」

「……レベル低下……このままではまた……」


 だが、謎の暖かさは、病室の温度の内に溶けて消えてしまう。
 周囲は慌ただしさを取り戻し、静寂はどこかへ去ってしまったようだ。安堵したのも束の間、今度は別の異変が体を襲っているのに気が付く。

 寒い

 死の気配は寒さに姿を変えて、私の命を再び脅かしに来たのだ。


「おじいちゃん……!」

「あなた……!」


 あの世に連れ去られそうになる私の魂を押し留めようと、家族が必死に私に呼びかける。先程もこうやって呼びかけてくれていたのかと思うと、涙が出そうな思いだ。しかし、あまりの寒気に涙腺すら縮んでしまっている。体が指先から凍りついていくのではないかと思う程だ。

 震える事すらできない中で、ただただ寒いという感覚だけが霜のように体を覆い、氷のような冷たさが心臓に近付いていく。血液の流れが滞り、とうとう熱を運ぶものが無くなってしまう。体を覆う寒さの気配が、停滞となり、強い眠気を呼び起こす。世界が再び曖昧になっていく。

 抗う事のできない眠気に、私の意識は引き摺り込まれ……。


『ピーーー…………』


 再び意識が闇に沈みかけた、その時。

 闇の中に、一筋のが射した。
 差し込んだ光は熱となり、瞬く間に凍りついた私の体を解かしていく。


「っほあ!はあ、はあ……」

「おじいちゃん!」

「あなた!」


 肺が動くようになり、私は呼吸を取り戻した。再び巡り始めた血液が必死に酸素を取り込もうとするが、これも体が眠りかけているせいなのか、どうにも上手く行かない。息が苦しい。


「呼吸戻りました……」

「……まだだ……酸素レベルが……」

「……光だ!お義父さんを……当てるんだ……!」


 耳の中で鳴る嵐のような呼吸音の合間に、婿が叫ぶのが聞こえる。次いで世界が大きく揺れたかと思うと、体がベッドから滑り落ちそうになった。どういうわけか、ベッドが傾いている。

 訳が分からないまま息苦しさに喘いでいると、視界に一筋のが走り、それが私の腹に当たった。
 するとそこが、陽が射したように暖かくなる。柔らかな暖かさが体の緊張を取り除き、呼吸が段々と楽になってくるのだ。

 少しずつ落ち着きを取り戻した私は、ようやく周囲の状況を把握することができた。私が横たわっているベッドは神輿の如く担ぎ上げられ、私はベッドごと窓際に移動させられていたのだ。
 それだけでなく、ベッドを持ち上げている婿や医師達は、窓の外を見て何事か言い合いながら、ベッドを右に左にと動かしている。

 よくよく目を凝らして見れば、窓の外から何本ものが病室めがけて飛び込んできていた。もしや、これが私を二度も死の淵から救い上げた暖かさの正体か。ベッドの担ぎ手達は、未だ起き上がる事のできない私にその光を当てようと四苦八苦しているらしい。
 だが、光はあちらこちらに散り散りに飛んできて、思うように私に当たらない。腕や頬に掠める光は一瞬の暖かさをもたらすが、すぐに冷えて元に戻ってしまう。

 担ぎ手達は重いベッドの下で、徐々に疲弊してきているようだった。時折、私を逸れた光が担ぎ手達の体に当たるも、あまり楽になっているようには見えない。光は健康をもたらす訳では無く、あくまで死を遠ざけるものであるようだ。


「危ない……!」


 担ぎ手の疲労からか、ベッドのバランスが大きく崩れる。
 力の入らない私の体が重力に従って転げ落ちそうになるのを、咄嗟に支えたのは妻であった。大きく傾いたベッドの横で、斜めになった私の体を妻が押さえている。しかし、支えを失ったベッドは、私ごと妻の上に倒れ込もうとしていた。

 その瞬間、どこかから怒号が飛び込む。


「ワシに欲なんか無いんじゃ!」



 妙にはっきり聞き取れた言葉と共に、今までにないほど眩い光が射した。

 光は私の胸を撃ち抜き、体が燃え上がるように熱くなる。溢れんばかりの血潮に乗って、力が瞬間的に身体中に漲るのを感じる。
 倒れ込むベッドの下で、私は咄嗟に妻の側に手を突き、背中でベッドを支えた。背中にどしりと圧力がかかるが、床に真っ直ぐ突いた両手は、しっかりとベッドの重量を支え、妻を押し潰すのを防ぐ。
 ここにきてようやく、体が私の言う事を聞いたのだ。


「お、おじいちゃんの意識が戻ったわ!」


「ああ、あなた……!」


 医師達がベッドをどかすのが早いか、妻と娘が私に抱き付く。2人を抱き寄せながら顔を上げると、涙ぐむ婿の背後、窓枠に三毛猫が座っているのが見えた。この猫も、私を見守ってくれていたのだろうか。
 ふと、猫が尾を揺らしながら外を振り向くので、私も釣られて窓の外に視線をやる。病院そばの公園に、小さな人影が見えた。

 片や立派な髭を蓄え、眼鏡をかけた小柄な老人。片や、身長の倍はあろうかという特徴的な長い頭を持つ老人。そして双方に共通する、戯画的なまでに立派な福耳。七福神の2柱、寿老人福禄寿だ。


「……何が上級の神じゃ、髭から濡れ雑巾みたいな臭いするくせに……」

「……おぬしこそ、頭からなんか加齢臭がするんじゃ……」


 2人は私達人間の事など意にも介さず、杖を振り回して殴り合いの喧嘩をしていた。杖が振り下ろされる度に、杖の先から光線が放たれ、あちこちに飛んでゆく。健康と長寿のご利益を持つ彼らが放った光線が、私を死の淵から呼び戻してくれたらしい。


「じいちゃん、もう大丈夫なの?」


 不安気な顔の孫が、恐る恐るといった様子で私に問いかける。ベッドから降りはしたものの、私の体には様々なものが繋がったままだ。心配になるのも無理はない。

 私は改めて、自らの体の調子を確かめた。もはや体には、痛みも寒気も残っていない。入院する前に悩まされていた腰痛さえも、どこかに行ってしまった様だ。体は私の思うままに動き、それどころか、まるで若い頃のような力が漲っている気さえする。

 私は孫を見る。必死に私に呼びかけてくれた彼の顔を、これ以上曇らせる訳にはいくまい。私は孫の肩に手を置くと、にっと笑顔を作ってみせた。


「ああ、もう大丈夫。元気モリモリじゃ!




『ピーーー…………』





 空気が凍りついた。

 静まり返った病室の中にある全ての視線が、ベッドと共にひっくり返った心電計のモニターに集まる。
 そこに映し出されていたのは、富士を映す湖面の如く凪いだ直線だった。

 モニターから私に移る視線に促されるように、医師が私の手首を取り、左胸に聴診器を当てる。

「……動いてません」



 凍りついた喜びの表情が薄れ、代わりに困惑の表情が人々に広がる中、外からまだ喧嘩をしているらしい神々の声が聞こえてきた。
 得意気な顔をして踏ん反り返る寿老人と、その胸倉を掴んだ福禄寿が、叫びながら言い争いをしているのだ。その内容は、とんでもないものだった。


「見よ!ワシのビームで病人が起きあがっとるじゃないか!
ワシの力を見たか!ワシの方が上級の神じゃ!」

「何言っとるんじゃ寿老人!おぬしのご利益が長寿だけなせいで、
体が治らんまま生き返っとるじゃないか!あんなもんゾンビじゃ!
極めてなにか生命に対する侮辱を感じるわ!

「なんじゃと!皆喜んどるんじゃからええじゃろがい!」


 妻も、娘達も、医師すらもどうしていいか分からず、心電計の止まった音が鳴り続ける病室で呆然と立ち尽くしている。私は自分の手を見つめ、開閉してみるが、特に支障はない。普通だ。心臓が止まっているのに、普通に生きている。

 私のその様子を見た孫が、ぽつりと呟く。


「じいちゃん、大丈夫なの……?」


 私はこう答えるしかなかった。


「さあ……?」









※この物語はフィクションです。
 実在の人物や団体や神仏や妖怪などとは一切関係ありません。


★元気モリモリの福平の姿が見られる『なならき』本編第三話はこちら


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