第11話 渡りに宝船
幸運は長くは続かないものだ。
禍福は糾える縄の如く、月に叢雲花に風。古来から語られてきたように、幸運は儚く、すぐに不幸に取って代わる。
もちろん、幸運が意思を持って人から逃げ出す訳ではない。
幸運というのは、通常よりも良いから幸運なのであって、絶頂の後には普通に戻るだけ……理屈では分かっているが、しかし惜しむ気持ちが拭えないのが人間だ。
ひょんなことから社長の座に着き、給料も待遇も改善したが、しかし周囲の態度や評判がそれで大きく変わる訳ではなかった。
妻とは和解し、コーポ宝船を引き払って妻の実家で彼女の両親と同居を始めたものの、妻との間にはまだぎこちなさが残っている。息子も以前ほどの刺々しさはなくなったものの、やはりどこか距離感のあるままだ。
会社でも、私が以前より敬われるようなことはなかった。座る席が変わっただけで、同僚や部下に軽んじられる冴えない会社員である事に変わりはない。仕事だって、人事部や法務部、会長の指示を受けて、言われた通りの事をこなすだけであり、むしろ以前よりも忙しくなってしまった程だ。
残業や休日出勤も余儀なくされる中だったが、今日は久々に全休を取る事ができた。さらに偶然にも、様々な仕事の兼ね合いが都合よく重なり、持ち帰りの仕事もない。今日だけは仕事を忘れて休む事ができる。
ゴルフの練習や気になっていた映画の鑑賞など、やりたいと思っていた事はいくつもある。しかし、過去の振る舞いを顧みた私は、ここは一つ、家族との交流に時間を費やすべきではないかと考えた。
とはいえ、家族にもそれぞれ都合がある。私は家族のグループに、「希望者がいれば一緒に食事をしないか」という旨のメッセージを送った。各々に都合があるだろうから、私は先に向かっておくので、来られるタイミングで来て欲しいと。
そして私は、ファミリーレストラン・賽の河ゼリヤに来た。今の私の財布であればもう少し良い店にすることもできたのだが、子供達には心理的ハードルが高いだろうし、ファミレスの方が出入りがしやすい。それに家族を待っている間、ドリンクバーで時間を潰す事もできるからだ。
待ち合わせである事を店員に伝え、席に通された私はドリンクバーを注文する。一杯のコーヒーを携えて席に着いた私は、軽く伸びをして、久方ぶりのゆったりした時間を味わった。
「いらっしゃいませ〜何名様ですか?」
新たに来店した客を、店員が出迎える。ぼんやりとしていた私は、ふと声の方へと意識を向けた。店員の青鬼と受け答えをしているのは、弁財天に毘沙門天、そして布袋だ。待ち合わせだと告げているのを見ると、七福神の集会か何かだろうか。そう考えていたが、彼らが合流したのは「王」と書かれた帽子を被った赤い顔の男だった。七福神に、そんな見た目の神はいないはずだ。
彼らの関係が気になるところではあったが、スマホが振動でメッセージの受信を知らせたので、私は取り出して画面を見た。妻からのものだ。
「かみすねくんのグッズ制作会議が長引いているの。
もしかしたら行けないかも」
妻は結婚前は元々デザイナーとして働いており、その経験を生かして少し前に地域振興のためのマスコットキャラクター「かみすねくん」を生み出していた。猫をモチーフにしたキャラクターのかみすねくんは若い世代に人気のようで、実際に地元商店街の増収に大きく貢献しているようだ。
できれば妻には来てほしかったのだが、そういった事情なら仕方がない。彼女を激励する言葉と、あまり無理はするなという忠告を返して、再びスマホを伏せる。
断片的に聞こえる内容から、七福神達が会話をしている相手はどうやら閻魔大王であるという事が分かった。何故この世の、それもファミレスにそんな大御所が居るのかは定かではないが、七福神達は閻魔大王に用事があってここに来たようだ。
コーヒーを飲みながら彼らを眺めていると、再びスマホが震える。今度は、高校受験生の息子からだ。
「今ちょっと勉強が佳境だから、今回はパス」
息子は少し前の模試で、それまでになく非常に優秀な成績を収めた。その結果を見て、志望校の段階を一つ上に上げる事に決めたのだ。もちろん、それまでよりも一層大変な勉強が必要になる。だが、当人はやる気だった。
私は彼にも応援の言葉をかける。これまでどことなく受験に前向きではなかった息子が、やる気を出してくれたのは非常に良いことだ。だが、ファミレスで待っている私としては、なんだか雲行きが怪しくなってきた。
悪い予感を見透かしたように、今度はより短い間隔でスマホに通知が入る。送信者は義父だ。
「今日は仲間とゲートボールの練習がある。
申し訳ないが、先約を優先させて欲しい」
端的だが、義父らしい理由だった。前に一度入院して生死の境を彷徨って以来、健康に気を使ってゲートボールを始めた事は知っていた。私の誘いも急な事であったし、約束事について厳格な義父ならば、先にあった予定を優先するのは当然だ。
しかし、義父が来ないとなれば、おそらくは。
「わたしも、今日は銭湯のお客さんが、多いので、行けません。
ごめんなさいね」
予想通り、そう続けてメッセージを送ってきたのは義母だ。彼女も普段は銭湯の客が少なければ普通に買い物に出たりもしているのだが、今日は運悪く客足の伸びる日だったようだ。いや、もちろん銭湯にとっては運の良い事なのだが。
2人にそれぞれ了解の返事を送った私は、メッセージグループのメンバー一覧を見る。あと返事が返ってきていないのは、妻の弟妹である義弟と義妹だけだ。
しかし、彼らもここしばらくは忙しくしていた記憶がある。あまり期待はできないかもしれない。一応、既読の数を鑑みると2人ともメッセージは見ているようなのだが。
なんとなくその場で何もせず座っているのがいたたまれなくなり、私はコーヒーのおかわりを注ぎに行った。テーブル席を隔てる低いパーティション越しに、閻魔大王と青鬼がなにやら言い合いをしているのが目に入る。本気の喧嘩ではなく、仲の良い人間同士の独自のバランス感覚に基付いた、一種のじゃれ合いのようなものだ。
義弟と義妹は妻とかなり年が離れており、結婚したての頃は彼らの遊び相手になる事がよくあった。息子が生まれてからは、2人がよく面倒を見てくれていたものだ。
だが子供の頃は適当に誤魔化せていても、成長するにつれて彼らは自分の世界を構築し、私のような世代の違う大人とは話が合わなくなってくる。そして私は、彼らと話をすり合わせる時間も手間も取ることができないまま、長い時間が経ってしまった。
過去に思いを馳せる私を現実に引き戻そうと、スマホが唸り声を上げる。私は目を閉じて深呼吸をすると、意を決して画面を見た。
「今日は彼女と一緒にいて……また今度」
「ごめん!コラボ配信中なの!」
最後に残った淡い期待も潰え、私は無気力に了解の旨を返信した。ソファーにもたれかかりながら、顔を覆って一際大きくため息を吐く。同時に、自分が家族との団欒をそれほど心待ちにしていたのか、という事実を理解し、どこかやるせない気持ちになった。
何も、これが唯一の機会であったという訳ではない。互いに忙しい身の上とはいえ、また時間を作ることはできるはずだ。そもそも、今日だって偶然に思いついただけで、これまで自分から家族を集めて何かをしよう、と思い立つことはほとんどなかったのだ。その手の提案はいつも、子供達か妻がすることが多かった。
では、何故急にそんなことを思いついたのだろう。
私はここしばらくのことを振り返る。仕事故に帰宅が遅く、平日はほとんど家族と言葉を交わすこともままならない。が、仕事を持ち帰って家で作業をしている休日であっても、コミュニケーションの量は以前よりも減っているのではないかと感じていた。
別に、誰かに大きな問題がある訳ではない。恵比寿の鯛に触れる前の私に比べれば、むしろ皆が各々の持つ目標に向かって順調に進んでいるように見える。だがその向いている方向が、あまりにバラバラなのだ。
人にはそれぞれ思いがあり、向いている方向が変わってしまうのも無理はない。だが、もはや誰も互いの方を向かなくなってしまった今の私達は、果たして本当に家族だと言えるのだろうか。私はこのまま、各々がそれぞれの道に向かうがままにさせて良いのだろうか。
コーヒーの黒い水面に映る自分の冴えない顔を眺めながら、私がそんな事を思案していた時だった。
またも、スマホが震え始める。しかしそれはメッセージの受信を示す短いものではなく、電話の着信を告げる長い振動だった。てっきりメッセージだろうと思い込んでいた私は数秒の間スマホを放置してしまい、電話である事に気がついて慌てて応答する。
「はい、もしもし」
「あ、もしもし?ごめんなさいねえ、急に……」
「いえ、構いませんよ。お義母さん、どうしたんですか?」
電話口に出たのは、銭湯で番台に座っているはずの義母だった。声からは困惑の色が滲み出ており、何かがあったであろうことが伺える。
「実はねえ、銭湯に落書きが見つかったの。
それも男湯の、富士山の絵のところに」
「なんですって?それは警察に通報した方が良いかもしれませんね」
「わたしもそう思ったんだけどねえ、
お客さんが消さない方がいいんじゃないかって言うものだから……」
スマホの振動と共に、一件の画像を受信した通知が画面に表示される。開いてみると、それは当の銭湯の落書きを写したと見られる写真だった。
青々とした富士山の頂上にある黒い影。それは風に吹かれながら空に向かって手を伸ばす、スカートの少女の絵だった。彼女が手を伸ばす先には、鮮やかな赤色の鯛が空を泳いでいる。
見覚えのある構図に、私は思わず息を呑んだ。メディアで何度も見た事のあるこの絵は、現代芸術の革命児、バンク神の最も有名な作品「赤い鯛に手を伸ばす少女」にそっくりだ。
バンク神は挑戦的な芸術作品で有名だが、同時に匿名で様々な場所に絵を描き残す事でも知られている。特に「赤い鯛に手を伸ばす少女」は、バンク神の活動初期に多くの場所に残された有名なモチーフだ。日本でもそういった作品らしきものはいくつか確認されているが、バンク神の知名度が上がるにつれて、支持者によるコピーが増えてきているのも事実だ。
そういった事情もあり、通常ならばこれが本物のバンク神による作品である事を予想することすら烏滸がましいといったところだろう。だが、私の直感がそれを疑えと告げている。私の脳裏によぎるのは、あの日目の前で輝いていた恵比寿の鯛だ。あの時のようなご利益が、家族の誰かにもたらされていたとしたら?
「……有名な芸術家の作品に似ていますね。
違うとは思いますが、伝手をあたって一応調べてもらいましょうか」
「あら、さすが社長さん。それじゃあ、お願いします」
私は電話を切り、連絡先の中から少し前に仕事関係で会った事のある芸術評論家を見つけ出す。いきなりの連絡と休日の邪魔をする事への謝罪を添えて、例の落書きの写真を転送した。
私はどうにも落ち着かず、そわそわしながらスマホを伏せて周りを見回す。七福神達の集まりにはいつの間にかもう一人増えていて、見た目にもわかりやすいお釈迦様が一人で話しながら七福神達を困惑させていた。
閻魔大王にお釈迦様。あまりに高い知名度と力を持つ彼らなら、同じレストランに居合わせるだけでもご利益があったりするのだろうか。
そんな事を考えていると、10分足らずで返事が返ってくる。忙しい人物であることもあり、すぐの返事は期待していなかったので、あまりの早さを訝しみながら私は画面を見た。
「これは、間違いなくバンク神の新作です!」
そんな前のめりな始まりの後、慌てて冷静さを繕うように、彼はそう判断した根拠をいくつか述べていた。画風や画材の一致、背景がバンク神の好む環境であること、そして何より、つい先ほど更新されたバンク神の神スタグラムに、同じ絵が作品として掲載されていたのだと言うではないか。
私は驚きのあまり思わず立ち上がりかけたが、なんとか踏みとどまり、僅かに浮いた腰を下ろした。
バンク神本人の手による真作であれば、その市場価値は数十億は下らない。また売りに出さずとも、絵を見るために訪れる観光客も多く、絵が描かれた場所には莫大な経済効果をもたらすという。
そんなものが、本当にあの銭湯にあるのなら、私達の生活は一変することになるだろう。いや、生活だけでなく、人生そのものが大きく変わるかもしれない。バンク神の絵は、それだけの価値を秘めている。
跳ね回る心臓の音を聞きながら、私は慎重に言葉を選んでスマホにメッセージを打ち込む。書いた文面を何度も読み返し、私はそれを家族のメッセージグループに送信した。
「銭湯で見つかった落書きですが、
バンク神による本物の作品だとわかりました」
送信済になった画面をそのまま見つめていると、やがて一つ、二つと既読が付き始める。そして、最初に反応を示したのは義弟だった。
「マジ?」
私は大真面目に返す。
「マジだよ」
私がその証拠を示すスクリーンショットを貼った瞬間、一体どこに息をひそめていたのか、6人の家族は一斉にメッセージを飛ばし始めた。
「ヤバ!バンク神の絵って億とかするんでしょ?!」
「え、それどうすんの、消さないよね?」
「かみすねくんとコラボさせて観光スポットにしましょう!」
「絵の前で同じポーズしながら自撮りしていい?」
「貴重な作品なら、美術館に連絡するべきではないか」
「バンク神さんってどこかで聞いたことあるわねえ」
驚きと動揺、そして喜びが混ざったそれぞれのリアクションに、私はひとまず落ち着くように告げる。そして私は、取引先との会議を取り仕切るような心持ちでメッセージの内容を打ち込み始めた。
銭湯は義父母の所有になっており、私は婿入りした訳ではないとはいえ、本来ならば家長である義父に判断を任せるべきだろう。しかし、義父母は最近のアーティストであるバンク神の価値をはっきりと理解している訳ではない。ならば、少なくとも家族の中では一番その手の処理に関する知識を持つ私が、舵を取って話を進めるべきだ。
「売却すればとてつもない大金を得られるのは間違いないが、
金のためだけに手放してよいものかどうか。
一度皆の意見を集めて、しっかり話し合わないか」
その言葉に、グループは再び静かになってしまう。スマホの画面越しには、各々の表情を読み取る事はできない。きっと、この沈黙は彼らの興味の喪失ではなく、不安と葛藤を表しているのであるはずだ。私はそう信じ、彼らの返答を待つ。
しかしこのメッセージアプリでは誰かが入力中であるかどうかまでは表示されず、長い沈黙に私は次第に焦りを感じ始めた。
元々家族で集まろうと呼びかけていたのは私であり、バンク神の絵の話を最初に家族のグループに出したのも私だ。私が家族を集めるために話を持ち出したと疑われてはいないだろうか?そのような側面が無いかと問われれば、私はそれを否定することはできない。
手のひらに汗が滲むのを感じながら、じっとスマホの画面を睨みつける時間が過ぎる。
そして、一つのメッセージが画面に表示された。
「会議早めに終わらせてもらったので、今から賽の河ゼリヤに行きます!」
妻のその言葉をきっかけに、家族は恐る恐るといった様子で、しかし次々に、同じようなメッセージを連ねる。
「家族の問題よりも趣味を優先する訳にはいかん」
「彼女に事情話したから、すぐに向かうよ」
「キリのいいとこまで終わったら行く」
「急用ってことで配信切っちゃった!向かいます!」
「お客さんに、行った方がいいんじゃないかって言われちゃったから、
わたしも銭湯を閉めてから行きます」
ほどなくして、それぞれの宣言の通りに、一人また一人と家族が姿を現す。彼らは店員の案内で私のいたテーブル席に一緒に詰め込まれ、そこだけ静かだった私の周りは、あっという間に賑やかになった。
妻が人数分のドリンクバーを注文し、子供達が軽食や甘いものを食べようとメニューを覗き込み、義父母がそんな子供達を宥めながらお手拭きを配る。こんな風に家族全員で集まって、和気藹々と食卓を囲むのはいつぶりのことだろうか。
私は家族の顔を見る。普段から明るい妻に義母、義弟妹はもちろん、ここのところ反抗期であった息子や常に表情の固い義父も、飛び込んできた思わぬ幸運に興奮を隠しきれないでいる。バンク神の絵が家族に、自分達に何をもたらすのか、誰もが期待に満ちた表情でいる。
やがて、全員分の飲み物と注文した品が全て揃い、店員がテーブルを後にする。家族の視線は、自然と私に集まった。
私はもったいぶったように一つ咳払いをすると、口を開く。
「それではこれより、七野家家族会議を始める」
※この物語はフィクションです。
実在の人物や団体や神仏や妖怪などとは一切関係ありません。
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