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第9話 触らぬ電源に祟りなし

 神はついに僕を見放したか。


 机の上のノートの文字は、自分で書いたにも関わらず判読が難しい。というか、先程からノートの文字に上手く目の焦点が合わない。隣に開かれた単語帳の上を、僕の視線はスケート選手のように滑っていく。
 僕は単語の書き取りを諦めてペンを放り出し、椅子の背もたれに体重を預けた。体は休まれども、頭が休まることはない。それもこれも、少し前から聞こえ続けている、不快な大声のせいだ。


「食らえ3連バナナあああ!」


 嫌に耳に刺さる声が、カーテンを貫通して窓の向こうから部屋の中に飛び込んでくる。無駄に音量の大きいゲームの効果音と共に、歓声と悲鳴がそれぞれ上がった。

 僕は、この声の主の1人を知っている。七福神が一柱、漁業神恵比寿だ。直接の知り合いという訳ではないが、時折顔を見る相手であり、カラオケで隣室になった事もある。そもそも、彼ら七福神は、僕の家の隣にあるアパート・コーポ宝船の住人なのだ。

 彼らの声がうるさいのは、何もコーポ宝船の壁の薄さだけが原因ではないだろう。休日の昼間であるとはいえ、いくらなんでも騒音が過ぎる。彼らに、良識というものはないのだろうか。
 ……まあ、元々そこまで勉強に集中できていた訳でもないのだが。

 しかし自分で集中しないのと、集中させてもらえないのには大きな違いがある。このまま騒音が続くようであれば、明日の模試に少なからず影響が出るだろう。明日の模試は、受ける高校を決める為の大切な判断材料になる試験だ。できるだけ万全の状態で挑みたい。

 さて、どうやってこの騒音を解決したものか。
 僕が考えを巡らせていると、恵比寿の声で気になる言葉が聞こえてきた。


「おっ、ぬらりひょん最下位じゃん!」


 その名前に、僕は思わず窓の方を見た。ぬらりひょんといえば、妖怪達の総大将とも称される、著名な存在である。同時に、人に害為す妖怪は、本来であれば人を救う神とは相容れないものであるはずだ。何故、そんなぬらりひょんが恵比寿達と共にゲームをしているのか?

 僕は好奇心にかられ、そっとカーテンをずらす。2階にある恵比寿の部屋は窓が半分ほど開いており、それが声が漏れ出している原因だった。不用心にもカーテンは全開で、部屋の中がなんとか見える。部屋の中には、テレビを囲む4つの姿があった。

 まず1人は、黄色い服に身を包んだ恵比寿。もう1人は恵比寿と似たような雰囲気を持つ、青い服の神。またがっている米俵を見るに、豊穣神大黒天だろう。
 そして、ぬらりひょんらしき姿もやはりある。まるで粘土細工をくっつけたようなでこぼこした頭が長く伸びており、その前面に人の顔がついている。その形状は、まさしく伝承に語り継がれるぬらりひょんの姿だ。
 では、最後の1人は誰か。遠目に見る限りは、黒い毛の生えた大きな肌色のバランスボールのように見える。振り返ったそれに大きな人の顔が付いているのを見て、それがつるべ落としと呼ばれる妖怪である事に気が付いた。

 コントローラーごと体が動いているぬらりひょんとは対照的に、つるべ落としはなんとも器用に、顎や唇の先でコントローラーを操っている。
 ぬらりひょんは単独で劣勢に置かれており、徒党を組んで囃し立てる恵比寿達に子供じみた駄々をこねていた。つるべ落としもぬらりひょんを庇うつもりはないようで、僕はなんだかぬらりひょんに同情してきてしまった。

 そうだ、ぬらりひょんをなんとか勝たせてやることはできないだろうか。

 僕はルーズリーフを一枚引き出すと、ペンを取って書き始めた。内容は、彼らのやっているレースゲームの隠しルートだ。知っていなければ見つけることが難しいが、ここを通れば大幅にタイムを短縮できる。
 いくつかのコースのルートを紙に図示し、ルートに入るためのコツを書き添えると、僕はその紙を折りたたむ。程なくしてシャープな紙飛行機になったそれを持って、僕は再び窓の外を見た。室外機の上で毛繕いをしていたラッキーがこちらを見る。

 ラッキーに静かにするように指を立てて見せながら、僕は注意深く神と妖怪達を観察する。
 ターゲットであるぬらりひょんは、激しく体を動かしながらゲームをしているため、レース中を狙うのは得策ではない。かと言ってレースをしていない時では、恵比寿や大黒天に気付かれてしまう可能性がある。タイミングを掴めないまま2レースほど見送ったその時、好機が訪れた。

 トイレにでも行くためなのか、恵比寿が立ち上がり、部屋を離れたのだ。ゲームが中断され、手持ち無沙汰になった大黒天とつるべ落としは(これまた器用なことに)スマホを眺めている。

 僕は窓から身を乗り出す。吹き抜ける風が頬を撫で、構えた紙飛行機を揺らす。強く吹いた風が僕の前髪を吹き上げ、建物を震わせて甲高い音を立てた次の瞬間、一瞬の静寂が訪れたのを僕は聞き逃さなかった。


(今だ!)


 決して力を込めることなく、手首のスナップを利かせて瞬間的に初速をつける。そしてタンポポの綿毛を風に乗せるように、紙飛行機をつまんでいた指をそっと離せば、まるで見えない糸に引かれるかのように紙飛行機は浮かび上がり、恵比寿の部屋の開いた窓に向かって一直線に飛んでいく。

 無事に室内に滑り込んだ紙飛行機は、音もなくぬらりひょんの頭の上に着地した。腕を伸ばして紙飛行機を取ったぬらりひょんは、紙飛行機に書かれた隠しルートの手引きに気がつき、目を見開く。
 それを見届けると、僕は素早く窓とカーテンを閉め、向こうからこちらが見えないように姿を隠した。なんかよわそうとはいえ、妖怪に力を貸そうとしたことが神に知られるのも、当の妖怪に知られるのも面倒なことになると思ったからだ。僕はあくまで、静寂と平穏を手に入れたいだけなのだ。

 恵比寿が戻ってきたらしく、再びがやつき始めた窓の向こうに耳をそばだてる。彼らはゲームを再開したようで、特徴的なキャラクター選択ボイス、そしてレース開始の効果音が聞こえてきた。しばらくは以前と同様にぬらりひょんの劣勢で進んでいたが、やがて変化が現れる。


「ちょ、ちょっと、何そのルート!そんなのあり?!」


 大黒天の叫びと、順位を抜かれたと思しき恵比寿の罵声が響く。代わって調子に乗ったぬらりひょんの笑い声と共に、レースはぬらりひょんの勝利で終わったようだ。


「ふっふっふ、見たか!これが妖怪の総大将の知恵よ!」


 差出人不明の紙飛行機に書かれていたことを自分の知恵のように語るのは癪に障るが、何はともあれ、意図は汲み取ってくれたようで安心した。これで恵比寿と大黒天のテンションが下がれば、ついでに言うならば萎えてゲームをやめてくれれば、というのが僕の考えた作戦だった。

 しかし、物事はそう上手くはいかないもので……。


「ノーカン!ノーカンだよこんなの!」

「何言ってんの、ちゃんと用意されてたんだから、
歴とした正規コースでしょ」

「いや、お前さっきまで超負けてたじゃん!
今更1回勝ったくらいで勝ちにはなりません〜!
1対11で俺らの勝ちです〜!」

「何だと?!だったら完全勝利を認めるまでやったるわ!」


 往生際の悪い神2人と調子に乗ったぬらりひょんは、むしろ前よりゲームにやる気になってしまった。今度は歓声と怒声に加えて、妖怪側が優勢になって元気になったつるべ落としが飛び跳ねるために、ドシンドシンと低い音が響く。
 こうなってくると、もはや彼らにアパートの住民が文句を言わない方が不思議に思えてくるほどだ。恵比寿と大黒天以外全員留守なのだろうか。

 これならば、神達が勝っていた時の方がまだマシだった。一度希望を持たせたぬらりひょんには申し訳ないが、なんとか元の状態に戻ってもらうことはできないだろうか。

 ある事をひらめいた僕は、再び隠しルートを書いた紙飛行機を作る。そして今度はそれを、堂々とレース中の恵比寿達のど真ん中に飛ばした。的確なコントロールで飛んでいった紙飛行機は、今度は恵比寿のたるんだ頬に突き刺さる。


いってぇ!……何だ、コレ?」


 紙飛行機に気が付いた恵比寿と大黒天、つるべ落としは興味を示すが、ぬらりひょんは明らかに動揺した様子で、恵比寿から紙飛行機を取り上げようとする。


「あ、それ貸して!えーと、それワシの!妖怪の連絡網だから!」

「え、妖怪ってそんなアナログな連絡手段使ってるの?」

「んな訳ないでしょ。普通にみんなスマホだよ」

「ちょっと!総大将がこう言ってんだから口合わせろよ!子分だろ!」

「何だよ、なんか見られたらマズいのかよ」


 大黒天が暴れるぬらりひょんを抑え込む間に、恵比寿が紙飛行機を開く。中に書かれている内容を見た彼は、ぬらりひょんと同じように目を見開くと、ぬらりひょんに向かって叫んだ。


「おい!これ、さっきお前が通ってた隠しルートじゃねえか!」

「な、なんだって?!そういえば、
そもそもぬらりひょんはこのゲームの事すら知らなかったのに、
急に隠しルート通り始めたよな……」


 ぬらりひょんを抑え込んでいた大黒天が、ぬらりひょんの服の懐をまさぐる。そして彼は、ぬらりひょんが隠し持っていた、最初の紙飛行機を見つけ出し、高く掲げた。


「あった!やっぱり、妖怪の知恵なんかじゃなかったんだ!」

「べ、べつにそれはたまたま飛んできたから拾っただけだし!
そんなものなくてもワシは隠しルート全部知ってたし!」

「絶対嘘だろそれ!」


 恵比寿と大黒天はぬらりひょんを糾弾するが、紙飛行機に頼った事を頑なに認めないぬらりひょんに呆れた様子で、そのままゲームを再開する。何にせよ、これで彼らの実力差は元の状態に戻ったはずだ。

 そう思ったのだが。


「ええっ?!なんで恵比寿後ろから来るの?!さっき追い越されたのに!」

「組長、周回差付けられてますよ」

「うそおおおおお?!」


 恵比寿達もぬらりひょんと同様に隠しルートを使い始めたことで、僕が紙飛行機を投げ入れる前よりも彼らの戦力差が酷くなってしまったのだ。もはやぬらりひょん相手には無敵と化してしまった恵比寿たちのテンションは青天井で、トップを独走する恵比寿の脇からは鯛が溢れ出し、生臭い匂いを撒き散らしている。
 しかしそれに増してタチの悪いのが大黒天だ。彼は自分の順位を気にせず、恵比寿を勝たせるためにぬらりひょんの妨害に徹している。おまけに妨害を恵比寿に褒められる度に小槌から小銭がこぼれ、甲高いチャリンチャリンという音がひっきりなしに響いてくるのだ。

 どんどん悪化していく状況に嫌気がさした僕は、頭を抱えて机に突っ伏してしまった。こうなればもはや勉強する気もどこへやらだ。いっそもう勉強は諦めて、ありのままの自分の実力で模試に挑んでしまおうか。

 そうしてふてくされていると、窓の外からのノイズに混じってコンコンとノックの音が鳴る。そしてノックをした人物は、間髪を入れずに扉を開けて部屋に入ってきた。ノックの意味がまるでない。


「どうだ、その……勉強の調子は」


 ぶっきらぼうな調子でそう聞いてきたのは祖父だった。

 僕の家族は少し前から母方の祖父母と同居しているのだが、祖父は受験生の孫がどうしても気になるのか、こうして度々様子を見に訪れる。彼はどうも寡黙でクールな祖父を演じたいようなのだが、あまりに様子を見に来る頻度が高い上、毎度そわそわした態度が隠しきれていない。
 そんな彼を憎く思っている訳ではないのだが、今日ばかりは僕の機嫌が悪かった。


「こんなんで進む訳ないじゃん。あいつらがうるさくて全然集中できない」

「明日模試なんだろう。大丈夫なのか」

「何も大丈夫じゃないけど。マジ迷惑」

「そうか……」


 僕の刺々しい態度に傷ついたのか、祖父はどこか悲しげな様子でそのまま部屋を出ていった。別にストレスが発散される訳でもなく、微妙な罪悪感だけが心に残る。けれど、あんな態度を取ってしまった手前、今から曲げて謝りに行くのも恥ずかしい。

 段々と暗くなる僕の気持ちとは裏腹に、恵比寿と大黒天はなおも楽しそうに騒いでいる。今やつるべ落としまでもそれに加わっており、ぬらりひょんもまた、勝てない事に対する文句を延々と愚痴り続けている。

 その声を聞いて、僕は段々と腹が立ってきた。そもそも、元はと言えば悪いのは奴らの方ではないか。奴らが騒音を起こさなければ、僕は平穏に勉強できていたはずなのだ。
 しかし怒りが腹に溜まれど、奴らに直接注意できるような度胸は僕にはない。いつも結局、僕は理不尽な仕打ちに泣き寝入りするしかないのだ。


「いけええトゲトゲ甲羅!!」

「逃げ切ってえええええ!ああああああ!!」

「やった!全員抜けえええ!」

「いやっほーう!」



 際限なく音量が上がっていく彼らの声が、まるで刃を持った凶器のように僕に襲い掛かる。もはや手段など気にする余裕もなく、ただその声から逃れたい一心で、僕はベッドに潜り込んだ。頭の上まで布団を被っても、ボリュームが下がるだけで声はどこかへ行ってはくれない。

 暗い布団の中で、ただじっと丸くなって脅威が去るのを待つことしかできない僕は、さながら捕食者に怯える草食動物のようだ。あまりに惨めな有様に、じわりと目に涙が滲む。僕が一体何をしたというのか。

 涙を堪えるように目を強く閉じ、恵比寿達の声を振り払おうとした、その時。



「うるさい!近所迷惑を考えんか!」



 怒号と共に、あれだけ賑やかに響いていたゲームの音が消える。そして、ボコッと何かを強く叩くような音と、ぬらりひょんの悲鳴。それを境に、彼らの部屋は嘘のようにしんと静まり返った。

 僕は、恐る恐る布団から這い出し、カーテンの隙間から恵比寿の部屋の方を伺う。部屋の窓はカーテンと共に閉まっており、まだ部屋の中で動く人影は見えるが、声のトーンが幾分か下がったようだ。反省したのだろう。いい気味だ。

 それにしても……先ほどの怒号を思い出す。久しく聞いていなかったあの怒号は、確かに……。

 再びのノックの音が、僕の思推を中断する。今度はやや躊躇いがちに、しかしやはり返事を待つ事なく、同じ人物が部屋に入ってきた。扉が開いた瞬間、どこか生臭い匂いが鼻をつく。

 見れば、祖父は立派な鯛を一尾持っていた。


「あー、ちょっとした伝手で鯛を頂いたから、
茶漬けにでもしようと思うのだが……食べるか?」


 そう言う祖父の目は露骨に泳いでいる。一体どんな伝手があれば、先程まで泳いでいたような鮮度の鯛を剥き身で貰ってくるような事があるのだろうか。いっそ呆れるほど嘘が下手だが、そんな彼を追求するような真似は僕にはできなかった。


「……うん、食べるよ」


 僕は祖父がキッチンに立つ姿を見たことはないが、彼は見事な手際で鯛を捌いてみせた。僕は彼の指示に従ってお湯を沸かし、ご飯を温め、ごまを潰す。潰したごまと調味料を合わせたものに鯛を漬け、ご飯に乗せてお茶をかければ、鯛茶漬けの完成だ。

 家族は皆いつの間に出かけていたのか、祖父と2人きりになった家で、向かい合って黙々と茶漬けを食べる。話題も会話も無かったが、暖かいものが胃に染み込んだからか、肩に入っていた力がゆっくりとほぐれていくような感覚があった。

 食器は片付けておいてやる、という祖父の言葉に甘え、満足感を抱えて部屋に戻る。静まり返った部屋の中で、どこか毒気を抜かれた僕は、これまで感じた事のない純粋なやる気に満ちていた。勉強しなければならないのではない。勉強したい、と思ったのだ。


 そして迎えた、模試の当日。僕は過去最高の成績を叩き出した。

 しっかり集中して勉強したお陰で、勉強しておいた内容がスムーズに思い出され、驚くほどに手が動いたのだ。それだけではなく、当日の問題は、何故か僕が直前に勉強した内容ばかりだった。
 運も実力のうちというが、まさか勉強に真剣に向き合った事で、僕にその運を手繰り寄せる力がついたとでも言うのだろうか。それとも、意識を入れ替えたことで、とうとう僕にも運が回ってきたのか。


 それなら、神はきっと僕を見ていたに違いない。








※この物語はフィクションです。
 実在の人物や団体や神仏や妖怪などとは一切関係ありません。

★福太の悩んだ騒音を体感できる『なならき』本編第九話はこちら


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