ミャンマーでの暮らしをつづる:日本語教師になりたいと思うまで

ミャンマーに渡航して、2週間がたちました。

日本語教師として、現地法人に直接採用されて2019年3月から働いています、ななこと申します。

日本で会社員兼ポートレートモデルをしていた私が、ミャンマーで働くことになった経緯やミャンマーでの生活について書きたいと思っています。

はじめに、私が日本語教師になりたいと思うまでの経緯を書きます。


私は大学3回生の就活シーズンになってはじめて、利益を上げるための仕事をしたくないと思ったのです。

当時の私にとって、利益を鑑みない仕事と言われて思いつく仕事は、公務員か独立行政法人職員しかありませんでした。

公務員を目指す他の学生は1回生の頃から公務員試験に向けた勉強をしていて、国際ボランティアサークルの活動に明け暮れていた私が公務員試験に受かる術はありませんでした。

そうして、「利益にとらわれない仕事」「事務職」という狭い狭い枠組みの中で、正社員の就職など見つかるはずもなく、卒業式まで2週間を切ったときようやく行政関係の契約職員という内定を手に入れることができました。

行政関係の職場だったので特殊な業務内容でしたが、大卒後すぐで社会知らずがよかったのか、周囲に恵まれたのか、他の人が言うよりもずっと楽しく毎日を過ごしていました。

希望の条件を満たした仕事で毎日も楽しいけれど、行政の契約職員ですから政府の方針や国会の予算審議によっては契約更改の保証がない仕事でもありました。

このままいつ切られるかわからない契約職員ではなく、正社員への転職活動を始めました。

もともと子どもが好きだったのに加え、大学時代の彼氏が教員だったこと、サークル活動でフィリピンやスリランカを訪れ教育の重要性を強く感じたことから、幼児教育の分野に興味を持ちました。

でも資格の問題や私の適正からして、私にできるのはやはり事務職でした。それを踏まえて転職活動するなかで、認可保育所の事務員をすることになりました。

私が働いていた保育所には中国ルーツの園児が2人いました。子どもたちはとても吸収が早いので日本語をすぐに習得できるのですが、保護者の方々が日本語を習得するのは時間がかかります。

私がいた保育所の保育士の先生たちは簡単な英語もできなかったので、ミスコミュニケーションが多発していました。保育士も大切なことは、やさしい日本語で書いて伝える、英単語を使うなどをすればのよいのですが、私がいたところの保育士たちはその発想すらありませんでした。大切なことは私が英語で通訳することが多く、

その時に日本で生活するには英語よりも日本語ができなければ生活に支障がでるのだと痛感しました。日本以外では英語が少しできれば生活できますが、日本では日本語ができないと不当な扱いをされたり困っていても助けてくれる人がとても少ない国だと思います。

保育所に通っている間は保護者と保育士が直接コミュニケーションを取る機会がありますが、小学校に上がれば連絡事項はプリントや子どもたちが書く連絡帳のみになります。そうなれば、いまよりさらに外国ルーツの保護者は困惑してすることは明白です。

そんな人のお手伝いが出来ればと思い調べていたところ日本語教師という仕事を知りました。

日本語教師について調べると海外でも求人があること、420時間の養成講座を修了すれば認められることを知り、自律神経失調症で仕事にあまり行けなくなっていた私は、私を辞めさせたくない会社と半年に渡る戦いの末、2018年10月で退職することができました。

そうしてようやく日本語教師養成講座に通い始めました。

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