私の生きてきた道

今まで私は道を辿って生きてきただろう

2000年9月1日生まれ。奈良県の富雄産婦人科。午前11:19(だっけかな?)に生まれた。

東大阪市のマンションで、父と母と三人で暮らしていた。髪の毛の少ない女の子。よく男の子に間違えられた。(今ではこんなにもフサフサ、良かった安心)私は、大のお母さんっ子だった。父に抱っこされるのは断固拒否で、すぐ泣いて母の元へ行く。なぜこんなにも父を嫌がっていたのかはわからない。左貫家の一人目の子供ということで、皆に愛されて育った。

3歳の時、弟が生まれた。お姉ちゃんになった。祖父と祖母とお留守番。こんなにも母と会わない日々を過ごしたのは初めてだ。そこで少しお姉ちゃんになったのかな?

4人家族で過ごす日々が始まった。父は働き、母は専業主婦で毎日家にいてくれた。歌を歌ったり、祖母とお医者さんごっこをしたり、弟と喧嘩をしたり、家族でご飯に行ったり、、、私には当たり前のような家族とともに過ごす時間があった。

進修第二幼稚園に入園。お友達がたくさんできた。このころから、私は友達と喧嘩をしていなかった気がする。平和主義だった。自分の意見をあまり主張せず、みんな仲良くするタイプだった。リトミックや体操、お茶会などもやっていた。幼馴染といえる、小学生になってからも家族ぐるみでお付き合いする仲の友達もできた。(久しく会っていないが、今頃どうしているんだろう)

高井田東小学校に入学。ドキドキの小学1年生だった。新しい環境になじむことが苦手で、小学校に入学するのがとても嫌だった。だが、そこでもたくさんの友達に恵まれた。一緒に帰る友達、地域の行事で一緒の友達、登校班が一緒の友達、交換ノートをしていた友達、クラスが同じ友達、、、小学生時代には、スイミングも始めた。バタフライを習得する前にやめてしまったことが後悔だ。埼玉に転勤が決まったときは、私の中で初めてのターニングポイントだったと感じる。はじめ、父から転勤を聞いたときは、とてもとても嫌だった。泣いた。友達と離れることも、新しい環境に一人で飛び込むことも、何もかも。だが、徐々に自分の中でも現実を受け入れはじめ、クラスのみんなの前で発表した。「小さいことは気にするな ワカチコワカチコ」そして、たくさんの大好きな友達に感動的なプレゼントをもらい、私は人に恵まれている、人の温かさを実感した。心から嬉しかった。何よりも埼玉で頑張る源となった。

小学4年生から、さいたま市の北浦和小学校に転入した。学校の綺麗さに驚いた。廊下がコンクリートではない、給食のワゴンがある、牛乳が瓶ではない、教室の前にげた箱がない、何もかもが違っていた。緊張した面持ちで4年1組に入っていった。40人の前で挨拶。同じ転校生の女の子もいた。心強かった。埼玉での生活は、どんどん友達の輪が広がっていった。小学5年生の時、友達の影響で、マーチングバンドというものに挑戦した。トランペットを担当し、初めてのチームで心ひとつに音楽を作り上げる、という経験をした。休みの期間も、練習した。ディズニーシーという大きな舞台で演奏する、という夢のような経験もできた。最高学年になり、マーチングバンドの副部長という役割に立候補した。このころから、代表委員や、給食委員会委員長、運動会開会式のドラムメジャーといった、みんなの先頭にたって引っ張っていく役職に積極的にやってみようと思うようになった。心が変わった。小学生時代の学びは、友達の存在の大きさ、新しい環境でもやっていける、みんなを引っ張っていく立場に楽しさとやりがいがある、ということだ。

本太中学校に入学。中学校は部活動が始まるということが、私の中で大きかった。母がバレーボールをしていたこともあり、なんとなくバレーボールというスポーツに惹かれていき、バレーボール部に入部した。中学2年の時に顧問が変わり、一層部活が厳しくなっていた。朝練週3日、放課後練毎日、土日も毎日練習、練習試合遠征、と毎日部活漬けだった。部活一本に集中してやる組か、勉強や遊びなどの時間もある程度作りたい組かで、分けるべきだという風になったときに、私は前者を選び、部活を最後までやり抜くことを決めた。練習も過呼吸になる人が、続出の日々で、部活に行きたくない、試合に出たくない、と思う日々も多かったが、それでも何か自分の中に諦めたくない、ここで諦めたら負けだ、という想いがあった。私は基本ベンチメンバーだったが、同じポジションを争っていた子が怪我をしてしまい、バレーボールができない日々が続いた。そのことをきっかけに、私がレギュラーとして試合に出るようになった。ほかのレギュラーメンバーは皆私よりもスキルがあった。私が試合中、足を引っ張てしまうことも何度もあった。きつい練習もたくさんあったが、このチームに貢献したい、このメンバーで試合に勝ちたい、この想いが強かった。自分のためというより、チームのためだからこそ頑張れた。引退を決める最後の最後まで、諦めずの戦い抜くことができた。やり切れたことの自信、努力が実ったという経験、素晴らしい仲間・後輩との出会い、何にも変えられない思い出、形としては残らないが、それよりも大切な見えないものを得た。この経験があったからこそ、高校受験も最後まで諦めずに努力し続け、市立浦和高校合格というまた一つ大きな自信を得ることができた。中学時代の学びは、チームで一つの目標に向かって頑張る楽しさ・目標を達成したときの達成感、最後までやり抜いた先には、どんな結果であれ必ず何か得られるものがある、ということを、経験をもって、実感することができた。

市立浦和高校入学。またもや、新しい環境に飛び込むことは不安でいっぱいだった。中学の頃と比べ、皆がそれぞれの道を歩むため、友達が少ない。同じ中学の友達は5人しかいなかった。独りぼっちほど嫌なものはなかったので、自分から話しかけに行くことも多かった。部活動は、正直、きつい練習ばかりはもう嫌だと思っていた部分があったので、ある程度オフもあり、部活の雰囲気が良いところがいい、というのが部活動選びの基準だった。結局私は、先輩と同学年の人と顧問の先生の人柄に最も惹かれたソフトボール部に入部した。(ソフトボールというスポーツに関しては、何も考えずに入部した(笑))ソフトボールは経験者がダントツで多いスポーツだということを後に気づかされていった。高校で初心者から始める人は少なかった。練習試合でも、周りが皆経験者で、自分がこのスポーツをやっていていいのか、、、肩身が狭かった。特に、バッティングがとても苦手だった。へなちょこフォーム。下から上にすくい上げてスイングしてしまうのが癖だった。なかなか直らなかった。それでも、チームの足を引っ張ていてはだめだ。何とか少しでも貢献したい。自分が打てば勝てるんだ。この想いが強く、必死で自主練にも励んだ。高3になると、ようやく少しずつヒットが出るようになってきた。先生から褒められること、仲間の喜んでくれる顔が嬉しい。最後の大会の最後の試合。点差はどんどん離され、誰一人ヒットが出ない状況が続いていた。そんな中、私は最後の最後で、一本だけヒットが打てた。努力が実った、神様が微笑んでくれた、と思えた瞬間だった。私の、頑張る源は一緒になって、頑張る仲間、それ以上でもそれ以外でもなかった。この経験は、受験期でも大きな自信となって、心の支えとなった。1日のできる限りの全ての時間を勉強に充てて、今までにないほど、毎日毎日努力し続けた、と自信をもって言える毎日だった。結果、早稲田大学に合格することができた。高校生時代の学びは、努力は必ず神様が見てくれているということ、嘘偽りない自信をもって言える努力と熱い気持ちがあれば、結果として実る日がくるということ、その経験が自分をさらなる成長に導いてくれるということ、を実感した。

そのような経験を経て、今の自分がいる。今までの人生を振り返ってみて、気づいたことは、今までで一度も、頑張ると自分で決めたことを途中で諦めたことがない、最後まで必ず私はやり抜くことができる、ということだ。最後までやり抜いてきた経験が今の自分を作っているのだと思う。根気強く、一途に物事をやり抜く力、人と助け合って、刺激しあって、自己成長できる力、そんな力を持っている。

今は、大学生としての生活の真っ最中だが、更なる成長をしていきたい。大学生での学びはどのようなことが待ち受けているのだろうか。

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