見出し画像

カフェ・ド・クリエ

私は34で今の夫と結婚した。
遠距離恋愛の末の結婚である。
そのため、結婚生活を始めるとなると仕事をやめなければならなかった。
そんな事も、後に子供を産むか産まないかを考えると、最後のチャンスのような気がして踏み切った。

仕事をやめ、籍を入れた辺りから夫の態度は変わった。
生活のちょっとしたことにも、干渉したり小言を言うのだ。
そこまでなら、まだありがちだと思うかもしれないが、異常なのは回数である。
同じことを200回くらいは平気で言う。
私はそれで新婚早々家を出たが夫に連れ戻され、目に涙を浮かべながら”もうあなたの嫌がることはしない”と言われた。
離婚を決めるにはあまりに早すぎるのではないか、という思いから私はもう少し様子を見ることにした。

結論、夫は小言は言わなくなったものの、信じられないくらい横柄になっていった。

家ではほぼ横になり、ずっとテレビのリモコンを握り、チャンネルを変え続ける。テレビとリビングは夫個人の物と化した。

常に私の頭の中には離婚の二文字があったものの、離婚に踏み切れなかったのはお腹に赤ちゃんができてしまっていたいうありがちな理由だ。

案の定、夫は赤ちゃんの世話など一切しなかったし、小学校に上がった今でも近所の公園にすら子供を連れて行ったことはない。

私にとって夫ではない、子供にとって父親でもない、ただの”テレビとリビングの支配者”である。


彩人

子供が歩き始めた頃、散歩の途中で家から4分ほどのところにあるカフェの前で子供が動かなくなった。

ーカフェ・ド・クリエー

そのドアの前から離れない。抱き上げようとしても暴れ、小さな手でドアを叩く。

このままではお店に迷惑だ、という思いから私は中に入ってみることにした。

中で大人しくできるだろうか、恐る恐るドアを開けると、黒いエプロンの長身の男性がどこかぎこちない笑顔で迎えてくれた。

なぜか、その店員に近づき、子供が離れない。
彼が動くたびに子供は後をつけた。

やっぱりダメか。

そうは思っても、出て行くのは難しそうだ。

その時、店員があの独特の営業スマイルも見せずに、子供を抱き上げた。
”気にしないで何か飲んで行ってください”

それが彩人との出会いだった。

家庭では二人の男の子の父である彩人は、子供をとても可愛がってくれた。
ある日、そっと見せてくれた二番目の男の子の小さな頃の写真を見て驚いたー

その顔はうちの子供かと思うほどそっくりだったのだ。

子供が保育園に通い出すと、毎日彩人の居るあのカフェの前を通る。
顔なじみになった彩人は、いつからか自然な笑顔を見せてくれるようになった。
私もカフェに入り浸るようになったが、あるとき聞いてしまった。

彩人の携帯から漏れる奥さんの声ーそれはこちらまで聞こえるほどの怒鳴り声だった。

彩人の奥さんは専業主婦だ。
でも、彩人は働きながら家の家事をほとんど一人でやっている。
夜寝るまでに自由な時間など10分もないそうだ。

私たちと出会ったあの頃、本当に精神的に参っていたという事実を最近知った。そして、知らないうちに私は精神的に最も危険な状態になっていたときの彩人の支えになっていた。

だからか、彩人は何かと私の世話をしてくれていた。
子供の塾選びから、偏食の子でも食べてくれる料理のレシピに至るまで、時には問題の先回りをして何でも教えてくれた。

一流企業の社員からカフェの店員を経験し、すでに二人のエリートを育てた上に家事までこなす彼は何でも知っていたし、私の子供も勝手に懐いている。

たまに構いすぎる彩人の言葉は元気だった頃の祖母を思い出させる。

彩人に私の踏み込まれたくない領域まで踏み込まれ、大喧嘩し連絡を断ったこともあったが、結局一緒に居る。

気づけばここに奇妙な”家族”ができていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?