「カラーパープル(2023)」感想①赦しとは。生きるとは。
短い感想 過酷な経験を乗り越えるために必要なものは信仰とシスターフッド(痺れた)。
あと、音楽家は全員観れ。
※確実にネタバレあるので、観る予定のある人は観てから会いましょう!
さらに、今回キリスト教に関する私の個人的な考えがかなり入っているので、信者の方はもしかするとご不快に思われるかもしれません。
以下、感想。
比べてしまうので今回はとりあえず原作未読、スピルバーグ制作の最初の映画版も未見で行ったんだけど、
とにかく序盤から中盤にかけて、主人公セリーの境遇があまりに悲惨で、希望がなさすぎて、言葉を失うとはこのことかと…
そこからあのラストまで辿り着くのがね。もしこれ家で観てたら、もう私は崩れ落ちるくらい号泣しただろう。もちろんこの映画自体はフィクションだけれども、アフリカンアメリカンの女性たちがあの時代のアメリカでどれほど酷い目に遭ってきたのか、話で聞くだけなのと目にするのでは全く違った。ナニコレ、生まれた時から地獄じゃん…
あれだけ絶望的な状況の中、それでも生きて行かなければならなかった人々。映画の中では女性同士の深い連帯が描かれていて、もう本当にシスターフッド万歳!と連絡のつく女友達全員集めてハグしたい気持ちになりつつも、さらに彼らにとって、神の存在がどれほど大きかったのだろうか。信仰がどれだけ多くの人を救ったのだろうか。キリスト教圏での個人主義が何に基づいたどういうものなのか、深く考えさせられる映画だった。
観終わってから日本の人のレビューをチラチラ読んでいたら、
あれだけ長年酷いことをしていた人物がちょっと反省したからって最後に許されるなんてあり?
というものが複数みられたんだけど、
うん、わかる。日本人的にはナシやろと思ってしまうの。わかるよ…
実際、キリスト教信者の方とかなりたくさん接してきたけど、特にアメリカにいた時は、あなた神様を都合良い解釈で使ってない?と思ってしまう人もたくさんいて、まあ要するに「神は何があっても私を愛してくださる」という部分を、「だから何してもよい」とか「間違っちゃったけど反省したからダイジョブ(そして同じ間違いを繰り返す)」みたいに開き直っちゃってるように見える人とか。自己肯定感があさっての方向に突き抜けちゃってるように見える人とか。一神教の基本だとは思うんだけど、一番大事な、コアの部分にあるのは神と自分の関係で家族だろうが他人はその次というのはどうしても外せないからね。どちらかというと自分よりも他人を優先させて考えることの多い(というか、他人に迷惑をかけることが一番の悪って感じですか)日本の価値観で見ると
ゴメンで済んだら警察いらんわー!!!
そもそもこういうことしたらどうなるか考えてから行動しろよ!
ってなるのよ。なるんだけど、実際アメリカでは圧倒的な懐の深さを感じる人物に出会うことも多くて、もうそれは日本には存在し得ないレベルだったりもする。そしてそれも確固たる信仰に基づいていることが多い。もちろん他の宗教だったり無宗教することもあるけど。この映画だと(急に戻る)主人公のセリーとか。
映画にあるように、1900年代初頭のアメリカ南部はやっと奴隷制から解放されたとは言え圧倒的に人種差別的な社会のまま。抑圧されたストレスを男性たちからぶつけられる存在でしかない女性たち。生き方を自分で決めることは許されない。そんなどうしようもない中に生まれてきたら、生まれてきてしまったら、もうそれは神に祈るしかないでしょうと心から思う。
苦難の最中にある時ほど、神と自分の太い繋がりを信じ、どれだけ辛いことが起きても神だけは自分の傍にいると信じ、ひたすら祈って祈って、いつか報われる日が来ると信じる。こんな悲しいことはありますか。でも、それが彼女らにとって唯一許された「希望を持って生きる方法」だから。
何故自分がこんなひどい目に遭うのか分からない。自分は何のために生まれてきたのか。理不尽だ。不公平だ。人は皆生まれながらに罪を持っているといいますが、神よ、私がいったい何をしたというのですか?
少しでも聖書を読んだ方はご存じでしょうが、聖書の神様というのは本当にガチの試練を与えるもので…それでも信じる者が救われるのがキリスト教。その代わり(?)、どれほどの間違いを犯したとしても神が見放さないのもキリスト教。心から悔い改めて戻ってくる者はあたたかく迎えましょうと。
終盤、クソ旦那がボロボロになって雨の中這いつくばって改心する場面、私は彼が神の前で本当に悔い改める瞬間を見たと思った。「他人に迷惑をかけたことを反省する」のとは別の次元で。その描き方が素晴らしい(さすがスピルバーグ)。そのあと彼は自分ができる最善のことをするのだけれど、それはもうセリーへのアピールとかいった表面上でのことではなくて(実はこういうことをやろうとしていて~とかも言わない)、たとえセリーが許してくれなくても彼は既に神に赦されているので心は満たされているのだと思う。実際には時間をかけてセリーにも許してもらえてよかったね、という感じだけど。
で、セリー自身の赦しについて。
さっき書いたことと矛盾するようでもあるけれど、私がアメリカ(人)の好きなところはセカンドチャンスに対して寛容なところ。あまりにあっさりしすぎじゃない?と感じるレベルでムーブオンできるところ。なんというか、「他人の行動をジャッジするのは神で、私(人)はすべきではない」とかなり明確に線を引いている。ジャッジを下すのは神の仕事なんですね。逆に、自分の心の中は他人に踏み込ませない。
セリーはソフィアやシュグとの出会いを通して、Noと言って立ち向かうことを学び、自分の力で前に進むことを選んだ。自分を愛することができた時、ムーブオンできた。その時点で彼女の魂は既に救われている。
ちなみに、原作はもちろんあるのだけど、これを撮ったのがユダヤ人のスピルバーグというのもじわじわくるなぁと思ったり思わなかったり。
急に現実に戻るけれど、セリーのような酷い目に遭ってきた人たちが「一生絶許」のマインドでその場に留まり続けたら、行きつく先はもう反出生主義かジェノサイドしかなくなる訳で。先ほど「希望を持って生きる方法」と書いたけれど、これ、現代日本だとどうでしょ。「他人に迷惑をかけない」ことが最善どころか最低限、の社会で日本はどんな国になろうとしているのか。
こんなことをつらつらと考えながら、そういえば最近日本のネット界隈でよく聞く「反出生主義」って英語で何と言うのだろう?と疑問に思い、夫に聞いても分からんと言われたので調べてみたらantinatalismという単語が出てきたんだけど、英語にするとめちゃくちゃ強烈というか、「人類は絶滅すべし」的な…?少なくともアメリカでこれ唱えてる人がいたら「極端な思想の人」といった印象があるし、基本的に「生は無条件で喜ばしいものである」ということが前提の社会ではあると思う。日本では「私は子ども産みません」というくらいの感じで使っている人多いんじゃないかな。日本語と英語で結構ニュアンス違うような気がする、といった程度の話で申し訳ない。
映画の話から外れてしまったけれど。私はこうやって色々考えるきっかけになる映画は好きなので、観て良かった。興味が沸いたので、これから原作と三浦綾子さんの「氷点」両方読んでみようと思う。
あと、音楽家はマジで全員観て下さい。
長くなったのでこれについてはまた次回。
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