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感情移入を逆手に取られた映画『バービー』【I'm Barbie, and Ken.】

前書き

映画を観てnoteを書くの、冗談じゃなく5年ぶりとかかもしれない。なんかバービーを観るまでの1日も残しておきたい気もしつつ、それから始めると感想へ行き着く頃には息切れしそうなので割愛。

初日は山の日でゴリゴリの祝日、映画館が混んでないわけないから映画館の予約画面を見ながら「やめよっかな〜」とゴロゴロしていたけれど、SNSに感想がたくさん流れる前に観たいからエイヤっと予約。探したら府中が空いてそうだったので、わざわざ京王線を乗り継いで全く知らない土地のデカ映画館へ。一人だとこういう効率とか関係なく動けるから嬉しい。18時40分の回は前方の席を除いてほぼいっぱい。米軍基地も近いからか、英語圏の人たちが多く、字幕よりも俳優の台詞に反応する人が多かった。


早速ちょっと泣いた 「今日も明日もずっと楽しいバービーワールド」

でっけえサメの予告編とか紙兎ロペとかを経て本編へ。観始めてすぐ、さっそく泣くことになる。主人公・バービーがパーティ中に「今日も明日もずっと楽しい!」的なことを言いながら踊っているシーン。あらゆるルーツ・体型のバービーたちが自分の望んだ職業で暮らし、夜は踊りまくるバービーワールドでは、彼女たちを脅かすものがまっっっったくない。彼女たちはポジションを奪い合う必要もないし、褒められても謙遜する必要なく「I deserve it.」と返して微笑み合う。だからこそ、今日も明日もずっと楽しいと心の底から言える…という思考がスッと理解できて、「いいな〜〜〜〜!!!!」と涙が溢れる。(このあと「死」について考えたり、セルライトが足に浮かんだりするんだけども)
そんな心理的安全を100%担保されながら、自らのアイデンティティについてまったく気後れせずに未来を考えられたことなんか、ないので…。正直、一生あの世界が進んでくれるだけでも良かったかもしれない。なぜならリアルワールドの描写(もちろんセルライトも)は、私にとって日常すぎたから。

ファンシーな書き割りを旅して行き着くリアルワールドの絶望

リアルワールドへ到着し、海岸でローラーブレードに乗るバービーに対して投げかけられる性的視線、強さを誇示することで結託するホモソサエティ、女児用玩具を作っているのに男性しかいない会議室、会議室の前でアイデアをひたすら書き出している女性秘書…改めて描写してくれなくても分かるし、バービーに見せたくなかった。バービーの世界だけは、あのルールで回っていてそれ以外の情報を入れて欲しくなかったのかもしれない。

一方で、ケンの瞳の奥は輝く。「男であるだけで、イニシアチブを握れるなんて!!」バービーの世界にいるケンは”バービーのボーイフレンド”という以外のポジションはない。サーフボードは持たされてるけど、プラスチックの波には乗れない。けれど男であること、強さを持って覇権を握ることができることを知り、それをバービーワールドへ持ち帰る。ケンたちに”男であること”を伝播させて、バービーワールドを書き換え、家を手に入れる。(”従事する”という体験を始めてするバービーたちは「こんなに考えなくていいなんて!」と受け入れてしまい、お世話をしたり、ケンたちの映画や車のウンチクを聞いてあげる役割になり、自分に仕事や能力があったことを忘れていく…これもグロすぎた…)

ケンの哀れさと、笑いきれない後ろめたさ

バービーたちはその後、思想的にもマッチョになったケンたちの欲望(バービーにビールを給仕させ、蘊蓄を疲労し、海でギターを演奏する)を逆手にとり形勢を逆転していく。その様子を見ながら、スカッとするけれど、同時にケンたちの哀れさに悲しさも感じる。これは自分に「男性をお世話をすること」「味方すること」が刷り込まれているからでは?と思いつつ。これが現実世界の人間たちやマテル社の重役たちなら「ざまあみろ!!!」ぐらい喜んでいたかもしれない。けれど、ケンもバービーも、作られた存在だ。ケンの存在を辿れば、本来は作り出した人たちのステレオタイプに行き着くはず。強くてマッチョで誰かの上で、マウントが取れないと安定しない存在感。「どちらかが添え物」でないと成立しない設定(ストーリー)が生成され続けるなら、永遠にこの問題は生まれていってしまう。

「あなたが解決しないと、意味がないんだよ」的なバービーの台詞(ちゃんと覚えてない)はケンと、ケンの企画者にどれくらい響いただろう。暴動後のバービーワールドはどうなっただろう。ケンたちは、どうやって自分を見つけていくんだろう…私はあんまり想像できていない。その想像し難さこそが、この「ケンが、ケンであることを受け入れる」ことの難しさだなと思う。

私はバービー?ケン?

観ながらどんどん「私はバービーとケン、どちらに感情移入しているんだろう…」と、わからなくなっていた。映画って主人公や、そうでなくても主要人物に自分と近しい部分を見つけて気持ちを乗せることが多いし、そういう風に映画も作られているけれど、バービーは観客の私が当たり前に行っていた"映画を観るときの感情移入と没入感"を逆手にとって、揺さぶっていた。

バービーの世界には憧れるし人間界に来たときの戸惑いを1000%理解できるけれど、彼女が持っている自己肯定感もアクティブでパワフルな行動力は、随分前にすり減ってしまった。後半で「すべてが終わるまでここから動きたくない」と座り込むバービーは、普段の私そのもの。目の前にどんどんダルいことが起こりすぎて、どんなに口を出しても改善されない。なるべく家にいて、人と関わる回数をなるべく減らして生きていきたいと思っているし。

そもそも、私はバービーワールドに生まれていない。自分の権利が向上することを望みながらも、日々を過ごすにはやり過ごすことも大事で、自分を大きく見せることでどうにか難を逃れようとしたり、男性性に乗っかることで振り落とされないようにしている。自分はフェミニストだけれど、特に男性の多い環境にいるから「自分がフェミニストである」という思想を薄めて、ヘラヘラと迎合するのが楽…となると私はやっぱりケンでもなく、ケンに洗脳されたバービーと同じ状態なのだろうか。

感情移入を逆手に取る脚本

映画を観たあと、なんとも言えぬ「どっちつかず」な気持ちになっている自分がいた。二項対立のキャラを見比べながら、「私はフェミニストであると思っていたけれど、全然そんなことないのかもしれない」「ケンに感情移入するって、あんまり認めたくない」とか考え、次の日の朝もずっと頭から映画が離れなかった。何が描かれていたのか、何を観せていたのか、それをどう観ていたのか。どうにか座り心地のいい椅子を探しているような。もしくは、椅子の足が一本だけ短いのを、どうにか誤魔化しながら座っているような。この映画について考えるとき、どこかに身を置かないと不安だった。鑑賞後の数日間、なんなら今日も、なんとも言えないその混乱について考えている。

そうして考えていくうちに、そもそもの映画の構造が「どっちつかず」であることを設計しているのでは?と思うようになってきた。(もちろんもっとライトに楽しめるけれど)観客が普段生きている社会の入り組んだ構造について見せようと、愉快な世界観と批判的視点、ジョークとメッセージ、的確な答えと観客へ投げかけながら、読者が感情移入しようとすることで正しく問題の真ん中へ身を置き、その上で丁寧に、丁寧にフィミニズムについての描写を重ねていることが。
フェミニズムという言葉にアレルギーを持つ人が「女」「男」という文字を見ただけで警戒してしまうからこそ、「バービー」と「ケン」というアイコニックな人形を用い、おままごとをする。
バービーは女性だけど、バービーワールドがあって、そこでは何にでもなれる。一方でケンは男性だけど、バービーワールドで添え物のようになっていて、「バービーのボーイフレンド」であること以外の個性がない。現実世界の「女性/男性」のそれぞれの現在地と要素をそれぞれのお人形に再分配し、フェミニズムの物語が形成されていく。

私はバービーだし、ちょっとだけケン

そろそろ30歳になる私はバービーで、ケンでもある。そういう言い方がちょうどいいのかもしれない。10代の頃の万能感はないし、自分が女であることを心から楽しむには社会がザラザラしすぎてる。だから、ケンが人間界に来て感動した気持ちは、バービーが始まってすぐに心を躍らせた私(女性)と一緒だった。「こんな世界があったらいいのに!」と初っ端から涙が出た私と、リアルワールドの図書館で「男とは?」的なテーマの本を抱え目をキラキラさせているケン(※)。自分のモヤモヤがこの世界線なら晴れるのかもしれない、という一抹の希望は心をキラキラさせてくてる。「もっと知りたい!他のケンにも伝えたい!」と思う気持ちもわかる。しかし、パワーで他を制圧したり、上下関係や主体と客体を用いて、自分の心地よさを優先しようとする思想とは、相容れない。それは、女性がまさしく社会で受けている抑圧だから。

※ ちょっと差し込むけど、このとき(もちろん物語の展開としてスピーディになってるという部分もあるかもしれないけれど)の「男ってだけで何にでもなれる!偉そうにできる!」と、人間界に来たばかりのケンが男性優位性をすぐ理解したという描写はめちゃ覚えておきたい。それくらい露骨な世界であるということを。

どちらかが主人公で、どちらかがサポート。どちらかが活躍するために、どちらかが影になる。どんなに頑張ったって、陣取りをしてる人たちがスペースを空けてくれないとその場所には立てない。その人たちを無理矢理引っぺがすのではなく、自分から退いてくれるにはどんな言葉が必要なのか…その言葉を考えるのは、いつもサポート。だけど、いい加減に一緒に変えていこうぜ!ていうか、どっちかにならなくていいんだぜ!どっちかになって力を誇示する嫌なやつにならなくていいし、どっちかになって心と希望をすり減らすこともしなくていいんだよ!とギャグと音楽とポップな映像と想像以上の展開で言い続けてくれた物語。きっとバービーワールドで理想ばかりを描いていても、「いつかこうなったらいいな」としか思えなかった。そこから一歩踏み込み、目指すべき未来と現実の構造を「バービーワールド」「リアルワールド」「バービー」「ケン」で描き出す。観る人はその二項対立の間で右往左往しながら、感情移入して泣くシーンもあるし、居心地が悪くてモゾモゾしてしまう瞬間もある。

この映画の軽やかかつ、丁寧に重ねられたメッセージを、他の人たちはどう受け止めたんだろう。今のところ、フェミニズムについて関心が高い人たちしか感想を書いていないけれど(それとフェミニズムという言葉が嫌いな人も書いてるけれど)もっともっと色んな人たちも無邪気に感想を言えたらいいなあと思う。あるいは、タイムカプセルのように、いつかこの映画のどこかのシーンが日常でフラッシュバックすることもありそうだ。その時に生まれる感情があったら、それも知りたい。

そして、リアルワールドで生きることを決めたバービーの心が、どうか折れずに、バービーらしく生きられますように。バービーワールドを出ないほうがきっと心地よく過ごせると思うんだけど、それでも「死ぬこと」と「生きること」を知るにはここに来るしかない。最後のシーンは、「構造の複雑さを知ってしまったら、それを無視して生きることはできない。声を上げずにはいられない。それでも生きていこうぜ、死ぬまで」って言われているような気になった。

正直そんなこと言われても頑張れるかどうかはちょっと…て感じではあるんだけど、バービーがこの世の中を一緒に生きていると思うことは、サバイブしていく上でのお守りになっている。

その他、まとまりのない雑感

①Netflixドラマ『セックスエデュケーション』のメイヴ役、エリック役、アダム役を演じていた俳優がそれぞれ出ていましたね。メイヴはバービーのうちの一人で、エリックはケンのうちの一人、アダムはマテル社に務める平社員。『セックスエデュケーション』でエリックとアダムはカップルになっていたけれど、今回は住む世界が違う二人。アイデンティティは特に描かれてなかったけど、胸アツだったな。

②楽曲もアツいラインナップだった〜。参加アーティスト豪華だし、それぞれのメッセージや歌詞がシーンに合わせて作られていた。英語話者と翻訳字幕で見る人だと、情報量が変わりそう…(ジョークとかも、日本の文化圏じゃわからないもの多かったよね)観終わった後、サントラの歌詞をめっちゃ読んで思い出すことも多かった。Lizzoのことは本当に残念。

③SNSで炎上した件、結構わたしも悩んだ。なぜ原爆が(笑えない)ジョークになるのか、この記事がとても読みやすかった。まさしく「アイコン」の話で、ますますそういうノリを公式SNS担当者がやっちゃダメだろ…という気持ちになった。
バービーと原爆:「#Barbenheimer」が浮き彫りにした「軍事」と「フェミニズム」という難問 https://rollingstonejapan.com/articles/detail/39863/1/1/1

④終演後、「全然分かんなかった」と言ってる父と息子、「え?わかんなかった?」て驚いてた母が後ろの列にいた。お母さんとハグしたくなりました。隣の女性も爆泣きしていて、そのパートナーらしき男性はキョトンとしていた。誰かと観に行ったあと、大きな溝を感じる映画でもあるのかもしれない…

⑤観た2日後?くらいにマーゴット・ロビー主演『ハーレイ・クイン 華麗なる覚醒』を観た。こちらも最高の映画で、もしかしてリアルワールドに生きるバービーは最終的に自立したハーレイ・クインになるのかもしれない。


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