雨が宿りて人の宿る

雨宿り


 梅雨も明けたというのに、最近はどうにも雨にお目見えする機会が多いような気がする。誰かさんの年に一度の逢瀬も、これじゃあままならないでしょうに。


 昨日の帰り道、雨に降られて歌舞伎町にて少し、雨宿りをした。
 歌舞伎町と雨宿りという言葉ほど情緒の無い組み合わせも中々無いなと思いつつ、ネオン光る軒下の元、雨宿りという言葉に思いを馳せた。


 雨宿りとは、「雨に降られて雨を避けるために軒下などに避難する」ことを意味する言葉だ。このことに難しさはないし、日常的に使うにも違和感ない言葉かと思う。

 しかし考えてみると、この言葉には不可解なところがある。
 「雨」と「宿」が如何様に結びつけば、かような意味になるのだろう?


 これは「人が雨を避けてどこかに避難する」という意味の言葉なのだろうか。

 しかし雨からの一時的な避難を意味したいのであれば、「雨避け」のように、動詞部にもっとavoid、keep awayのような意味を持った言葉を使うべきだろう。
 「宿る」という動詞に載せる意味として「避ける」は、少々荷が重い気がする。


 雨に降られて軒先に宿る、という文の短縮系としての「雨宿り」に疑問を抱いた時、もしかしたら、この言葉の主語は「雨」なのではないかと思い至る。

「雨が宿る」という文が原型だとしたら、どうであろう。


「宿る」という言葉には、「来てある位置を占める」という意味がある。草に露が宿る、星が宿る、など(岩波国語辞典より)。

 とすれば「雨宿り」の意味とは、「雨が中空を占める」、もっと柔らかくして「雨が降る」というものになるのだろうか。星宿り、ならぬ、雨宿り。


 おそらく、これは言葉として成立する。けれども雨から逃れる、という意味を内包していないという点で、現代の「雨宿り」からは離れるだろう。素敵な響きだとは、思うけれども。


 さてはて、この言葉の主語は「雨」なのか「人」なのか、「宿る」とは「そこを占める」のか「どこかに避難する」なのか。

 答えの出ないまま、歌舞伎町を離れる。


宿

 歌舞伎町を出て帰路につく間、ラジオを聴いていた。
 流れてきたのはTokyo Fmの「感じて、漢字の世界」という番組。


 正直、これはあまり好きな番組ではない。タイトルのセンスも受け入れ難いし、ご年配の淑女が昔語りのように漢字についての知識を披露するスタイルも、何となく好きな趣ではない。

 けれども驚くことに、今日のテーマは「宿」だという。
 普段ならチャンネルを切り替えるところだったけれども、今日はそのまま耳を傾ける。


 「宿」という漢字は、ウ冠が霊廟を、人偏が人を、百の字が敷物を表しています。聖なる建物で人が敷物の上で休むということが原義です。その意味では、「宿坊」という言葉が本来的な意味を正しく備えていると言えるでしょう。
 この時期に宿るといえば、雨宿りという言葉がありますね。
 江戸時代、旅人は長い旅路を歩いて旅していました。
 彼らにとって危険は避けなければいけないもの。雨に降られてしまう長雨の季節なんかには、数日間に渡って宿屋に宿泊し、雨をやり過ごすなどしていました。雨宿りとは、そのようなところから生まれた言葉です。


 これを聴いて思わず、ああと声が出た。
 雨宿りとは、本当に宿することを意味する言葉だったのだ。雨に降られて、もう進めなくなり、宿屋に泊まる。

 それが転じて今の「雨からの一時的な避難」に転じたのならば納得できる。時代の変遷により、言葉の本来の意味が弱くなるということはよくあることだ。


 「雨が降って来たので宿に宿泊する」という意味が転じて、「雨が降って来たので一時的に軒先に避難する」となった「雨宿り」。


 すっきりしたものの、ちょっと雨が主語の説も捨てるには惜しいと思ってしまう僕の業。

 どうせなら、二重に意味を持たせた方が瀟洒ではないだろうか。
 僕が江戸時代の人ならばこのように意味を、宿らせただろう。


 雨宿り。雨が宿りて、人の宿る。


 思わず、十七文字。いや、字余りか。

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