与えられることに慣れて
与えられて生きている
僕らはいつしか、誰かから何かを与えられることに、すごく慣れてしまった。
学校に行けば先生に知識を与えられ、後輩になれば経験を与えられ、会社に勤めれば給料を与えられる。
これが間違っている、なんてことは思わないけれども、それでも、「与えられる」ということに慣れ過ぎてしまっているような気がしてならない。
知識は得るものだけれども、与えられなければ得られないものではないはず。けれども僕らは何かを学ぼうと思ったら、すぐにスクールに行くことを考えたり、本を読んで勉強したりすることを考える。
お金は手に入れるものだけれども、与えられなければ手に入れられないものではないはず。けれども僕らはお金を稼ごうとした時、よりよい給料をくれる会社を探したり、より効率的に働いて評価を上げることを考える。
無から有を生み出す力、なんて言うと格好良すぎるけれども、何かを求めたときにその手段が他者依存に過ぎるのは考え直さないとなあ、と最近よく思う。
いつの間にか持っていた権利
僕らはどうやら生まれながらにして、色々な権利を持っているようだ。
生きる権利、差別されない権利、平等に扱われる権利、などなど。
でも僕にはどうも、これらが価値あるものだと思えない。それはきっと、自分の努力で得たものではないからなのだと思う。
個人の幸福が段階的に充足されるものだとして、それがマズローの欲求階層のような形をとっているとしたら、僕らが持っている権利っていうものは生理的欲求のような最下層を支えるものだろうか。
だとしたら、僕らは他人に任せてはいけない領域について他者に委ねているような気もする。気のせい?
言い訳
一から十まで全部自分で手に入れる必要はない。ほとんどの大人はそう言う。
でも手に入れられるならそうした方がきっと良いに決まっている。
そう出来ないから、綺麗な言葉で自分に暗示をかけているに違いない。お金は自分で作るものじゃない、会社から貰うものだ。法律は自分で作るものじゃない、守るものだ。なんて。
何も意識しないで生きていると、いつの間にか受動の波にさらわれてしまう。
どうにか波にさらわれずに生きていきたいなあ。
波は水。乗れもするし、飲めもするのだ。
思考の剝片を綴っています。 応援していただけると、剥がれ落ちるスピードが上がること請負いです。