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「何もしない贅沢」を楽しめること

最近自分は年をとったのかな、と思ったのは、「何もしない贅沢」を楽しめるようになったことです。

よく、リゾートや観光のキャッチコピーなどになっていたりする「何もしない贅沢」。これが楽しいという意味が実はいまいち腑に落ちていなかったのです。

20代の時、モルディヴに旅行に行って、綺麗すぎる海と空に感動したけれど、特に何もすることがなく、2日で飽きた、もう十分だと思いました、という話を、当時の退職間近の上司にしたところ、「それはね、君はまだ若いからだよ」と言われました。60歳近くまで死ぬほど働いてきた自分(その上司)は、もう退職したらしばらく何もしない贅沢を味わいたい、のんびりぼーっとする生活をしたいよ、と。

33歳になり、産休に入って里帰りをし、陣痛が来るまで、仕事も家事も何もしなくても許されるような状況に、初めて直面しています。こんな自由な時間は貴重なので、資格の勉強しようとか、note始めてみようとか、たくさん本読んで映画も見ようとか、色々自分にやることを課したりしてみているものの、実はそんなに心が向いていかないのが正直なところ。

妊婦はやたら眠たくて体も重くて、集中力続かないのだよ、という言い訳もできるのですが、というよりは、日々のゆったりとした暮らしと、何もしないボケーっとのんびり生きることに幸せを感じているのです。

札幌の実家にこんなゆっくり滞在するのは、高校生以来で、近所の公園に散歩に出かけ、白樺の木々が茂っているのがただ嬉しかったり、道端のつくしやふきのとうを見つけて喜んだり、狐が歩いているのを見つけてテンション上がったり。朝昼晩のご飯がただ美味しかったり、空の雲が流れているのが気持ち良かったり。こんなに何の不満もストレスもなく、心穏やかに生きている時間は、人生で初めてなんじゃないか、というくらい。

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学生時代も、ロンドン留学時代も、ひたすら社会の中で働きたいという焦燥感に急かされて、追われるように勉強をしていたし、ぼーっとしているのは、自分の能力を無駄にしている、経験に対して貪欲に生きねば、と思っていたのに。

10年働いてきて、ひたすら激務な中で、コンビニ弁当とか、夜中の松屋とかでご飯を食べるのが普通で、寝不足も仕方ないし、上司や同僚と闘うこともよくあるし、季節の移り変わりや天気なんかに目も暮れず、毎日の満員電車も当たり前だった日々は、やっぱりしんどかったな、と思う。もちろん仕事ができることはありがたいことなのだけど。

「何もしない贅沢」をただ受け入れて楽しめるようになったのは、これはこれで一つ大人になったのだなぁ、と思う今日この頃。今はこの時間を愛おしく楽しみたいと思います。


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