人生のベストな選択 はじめましてななです。

はじめまして(というか昔も少し書いてますが)ななです。
あなたはどんな人?と聞かれたら「支援高校生の息子のママ」と答える。ママ友はみんな下の名前で呼んだりしているけれども私は「〇〇(息子の名前)ママ」という呼び名でしてその呼び名を最高に気に入っております(^^)

今どき仕事もしておらず、またの名は「ニート主婦」であり、そして全然嬉しくない「乳がん(ステージⅢ)サバイバー」でもある。

さてさてそんな私ですが小学校の頃は「クラスで一番頭いい人」だった。と言っても中学のように順位が貼られるわけでもなく完全な子どもたちの主観の世界での「頭いい人」ね。

「ななちゃんは北高(札幌のトップ高)行くんでしょ?お姉ちゃんが言ってたよ、ななちゃんみたいな子が北高行くんだって」
「どんな仕事するの?弁護士?お医者さん?」と聞かれ、訳もわからず「うん、頑張ってみるね」とか言ってみる幼き日の私。

6年生も中盤を過ぎた時、三者懇談で「ななさん附属中学受験してみないか?」と担任からお声がかかった。みんなと一緒の中学に行きたいけど「附属中」という甘美な響きにも惹かれる。なんてちょっとワクワクする私。その帰り道、当然母から附属中について何か話があるはずだとこれまたワクワクしていたが、ない。全くない。恐る恐る私から聞いてみる。
なな「附属中ってさ〜」
母「は?」
悟った。全て悟った。そうか、母は附属中なんて全く興味ないんだ。でもまあ私もすごく行きたいわけでもないし。と思いながらも「他クラスの一番」の子が数人附属中に行ったのを少し羨ましくも思っていた。

そして中学へ。最初の定期テスト「だけ」は学年で5番以内だった。ここでもまた担任から「ななは北高合格に向けて頑張れ」と言われた。すごく熱心ないい先生で「この先生が言ってくれたんだから頑張る!」と意気込む。

のも束の間、ここで本来の「頑張れない」性格が発揮されてしまいみるみる間に勉強がわからなくなっていった。もちろん成績が落ちたからと言って家で何を言われるわけでもない。それはそれは巨大滑り台のごとく成績が落ちていき、北高?何がですか?状態になり、結局は「最後だけ頑張り必死にしがみついて」中堅進学校に行った。ここで6年生のときのクラスメイトの期待を裏切ってしまったわけである。

中堅進学校ならそこから頑張って国公立大学に行く道もあったわけだがそもそもが「必死にしがみついて」入っているので当然授業も必死にしがみつかないとわからない。というかもうこのあたりになると「必死」という言葉は私の辞書からなくなりテストで3点だろうがしかもそれが多教科に渡ろうが何も気にならなくなっていた。しまいにはおサボりまで覚えてしまい、高2の3学期に担任に呼ばれ「なな〜、このままだと出席日数足りなくて3年生になれないけどどうする〜?」みたいな深刻な事態になっていた。だがここでも得意の「3年生だけ頑張る」を発動しなんとか希望の短大へ入学し最高に楽しいキャンパスライフを送り、幼稚園の先生を経てガス会社の事務員となった。

このガス会社で運命の夫と出会いそれから21年。
「将来は弁護士か医師か」と噂された少女は立派なニート主婦になっております。

主婦になってお母さんになってからも時々思うことがあった。あの時附属中に行って一生懸命勉強していたら今はどうなっていただろう。弁護士や医師は無理としても一人で一生生きていけるような職業につけていたらどんな人生だっただろうねって。

でも進行した乳がんがわかって長くてもあと十数年。というところに来て私は断言できる。今の選択がベストだったと。

例えば違う道に進んだ自分が見れたとして、医師になっている自分よりも一流企業に入社して女性初のなんとかになった自分よりも、はたまた違う男性と結婚した自分よりも、今の夫と結婚して息子を授かった自分が一番良かったって思う自信がある。

これから病気が進行していくのがとてもとても怖いけれど、それこそ人生を賭けて一生懸命愛した2人に最期を看取ってもらえるとき、一点の後悔もなく旅立てるであろうことに光を見ながら一日一日大切に積み上げていきたい。


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