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何でもない日に東北について考える

今日は2021年10月17日。東日本大震災から10年7ヶ月と6日。
「あの日から何年」そういって節目の日にだけ、ファッション的にテレビやSNSで語られる震災の話は、なんとなく苦手で。
だから特に節目でも何でも無い今日に「東北」について考ようと思った。

先にいうと、私は東北になんのゆかりもない。
津波に流される街はテレビの中の出来事で、原発問題は受験問題の論述のテーマでしかなく、行ったのは3年前のいわきと2年前の双葉(福島第一原発)、今年の仙台の3箇所だけだ。
だから、当事者でない私は「東北」について「震災」について「原発」について語る言葉を持たないと思っていたし、書くことも話すこともしてこなかった。

それでも、東北について興味はもっていて、たった3度とはいえ東北に行き、福島第一原発へも足を運んで、大学生活が終わる前に何か拙くても書いておこう思ったのは2冊の本があったからだ。

1つは、大学1年のときに読んだ『新復興論』。
福島という土地でプレイヤーとして復興を経験した著者が、震災がもたらした”分断”について、震災によってあぶり出された福島という地域の歴史について、そしてそれらを踏まえた上で新たな「復興」について書かれていた。


2つ目は、大学4年の今年に読んだ『モノノメ』という雑誌。
そのなかの「10年目の東北道を、走る」という紀行文にて石巻や気仙沼のプレイヤーへのインタビューや、東北の現在の写真が載っていた。

この2冊が見せるのは、震災の辛さを乗り越える人間の感動物語でも、復興の中で感じる人間関係の暖かさでもなくて、むしろ震災が暴いた、現代日本が、私たちが、持っている「醜悪さ」だ。


中央への依存

例えば、原発事故で大きな被害を被った一方で、原発によって地域経済が回っていたという福島の側面は、なにも今に始まった話ではない。東北(アイヌ)と関東(ヤマト)の境目であり、関ヶ原・戊辰の2度の内戦で敗北を経験してきたこの地は、中央からの下請けとしての役割を歴史的に負わされてきた。
原発はその例の一つにすぎない。その前には常磐炭鉱があり、今後は廃炉産業。食分野でも日本トップクラスの生産量を誇りながら、首都圏に出荷するための安価なコモディティ商品がほとんどを占める。

常磐炭鉱の開発以来、この地は、国策を受け入れることでジャンプアップを図ろうとしてきた。しかし、エネルギー産業に傾倒するあまり、首都圏を支えることが誇りになり、本来そこにあった文化や歴史に目を向ける機会が減ってしまった。地域の発展のため、時代の要請を粛々と受け入れ、拘泥たる思いを抱えながらも、首都圏の大消費地を支える「もの言わぬ供給地」であり続けた。日本という国をどこよりも支えているのに、なぜか周縁化され、何かが起きると切り捨てられてしまう。(中略)それがこの地の運命なのかもしれない。(32ページ、『新復興論』)

そしてこの光景は、震災から10年目、同じく原発を抱える女川にもあった。

そして僕は三たびこの土地(女川)に立っていた。そのピカピカの駅前の広場には、全く人がいなかった。(中略)もちろん、それはコロナ・ショックのためだ。この土地は、原子力発電所を受け入れてキラキラした観光地になることを選んだ。そして見間違えるような街を作って、行列店を生んで。目に見える成果を上げた。そして10年目に、次の厄災に晒されていた。(中略)この土地の生まれ変わり方が正解かどうかを、僕が判断することはできない。ただ、一つ言えることは、外から観光客が来なければ立ち行かない街というのは、国策としての原子力発電所の設置を受け入れないといけないことと同義で、やはりそれ「だけ」ではダメなんじゃないかということだ。(14ページ、『モノノメ』)

東北は、原発の以前から中央に依存してきて、今後も下請けとして機能していく。そしてまた、「何か」が起こるたびに切り捨てられていくのだ。


数々の分断

そうして下請けとして機能していた東北、特に福島は原発事故によって、特に原発事故に伴う賠償金によって、数々の分断が生まれたという。
そのひとつが、いわき市民と双葉郡からの避難者の軋轢の問題である。賠償金を手にした双葉郡の住民たちがいわき市に流れたことで、いわき住居関連の物価が上がる一方、そのバブルの恩恵は一切ないまま、厳しい生活を強いられる地元のいわきの人々ち、そこにやってくる”ヨソモノ”(=双葉郡からの避難者)との間に軋轢が生まれたのだ。

ちょうど復興バブルなんて言われていた頃を思い出すと、残念ながら、避難者へのイメージは良好とは言えなかった。もちろん人それぞれではある。しかし、タブー化しただけイメージが固定化してしまったという面もあるだろう。「カネばっかりもらって仕事をしていない」というような、分かりやすいヤッカミが固定化した、そのせいで「昼間から酒盛りしている=双葉の人間」というような安易な偏見が生まれてしまった。数年前、フェイスブックで見かけた投稿を思い出す。新築住宅の塀に「賠償金御殿」とスプレーで落書きされたのを撮影した画像だった。
 スプレーでの落書きなど、人として最悪の行為だが、同じ被災地の住民であるのに、有形無形の負担や配慮を強いられてきたいわき市民が賠償金のあり方に対して疑問を感じることを理解はできる。自分の暮らしを維持するのが精一杯、もともと所得の低いいわき市で、双葉からやって来る、さらなるマイノリティを受け入れるだけの余裕は大きくない。(157ページ、『新復興論』)

こうした暮らしに、もっと言えば”カネ”にまつわる問題──賠償金の有無や額、家族構成、支援の充実度、帰還への展望など──は、いたるところで様々な形で噴出していたことだろう。私たちが「被災地」と呼び、「絆」による連帯を呼びかけていた震災当時からおそらく現在いたるまで、その内には分断によるギクシャクが生まれていた。

「あいつら、カネに目がくらみやがってよ」──この村は村民の帰還を推進し、国から降りてくる復興予算の類でいわゆる箱物行政を推進したいと考える村長派と、避難指定区域を解除させないことで賠償金を受け取り続けたいと考える反村長派に分裂し、抗争を続けているということだった。僕は思った。ここは地獄だ、と。そこは被災されたことではなく、その後に流れ込んできたものによって、誰も土地そのものには関心が持てなくなってしまった場所だった。(11ページ、『モノノメ』)


意味をなさない「復興」

そして、そんなふうに中央に依存してきて、分断にもギクシャクしながら、街を「復興」させるのは容易ではなかったことだろう。それも本来必要だったのは「震災前の状態に戻すこと」ではない。

東日本大震災で被災した東北の港町。その多くは、震災前から衰退が始まっていた。皆、口を揃えて「かつての賑わいを取り戻したい」と言う。しかしその「かつて」とはいつなのか。高度経済成長の時代だろうか。北洋サケマス船が空前絶後の儲けをもたらしていた時期だろうか。(42ページ『新復興論』)
そのとき、タクシーの運転手──当時50代半ばに見えた男性──は、津波で壊滅した市街地を案内しながらこう言った。「このあたりは津波が来る前からダメだったんだ」と。(17ページ『モノノメ』)

街は歴史的に何十年何百年と中央に依存してきていて、その土地のつながりの強いコミュニティのなかで他の地方都市と同様に、衰えていたのだ。震災は、それを加速化させたにすぎない。
求められていたのは、震災前とは全く違う街を、「復興」と言う名のもと一からつくるアクロバティックな”まちづくり”だったはずだ。
しかし、蓋をあければ広がるのは以下のようなものだった。(『新復興論』『モノノメ』から抜粋)

・助成金や補助金頼みの、「おじいさんだけで決めてしまう」地域づくり
・その街の観光資源となる「海」を見えなくした防潮堤
・議論なく「見るのが辛い」という声で壊される震災遺構
・誰も本気になっていない「助成金を取るための」水産品づくりプロジェクト
・東電からの安定した休業補償を得るために、通常操業へと戻りにくくなった福島の漁業者
・地方への利益分配装置として作られた必要のない公園
・15メートルの津波が来た所に作られた8メートルの防潮堤

こうしたその場しのぎの短絡的にも思える──『新復興論』的には「思想の欠如した」、『モノノメ』では「想像力の貧しい」──事例は、まさしく枚挙にいとまがない。
結局、震災前とは異なる新たな街を作る「復興」は失敗したのだ。

では、何が必要だったのか

こうして見えた「醜さ」は、震災や原発が暴いただけで、東北のみならず現代の日本や世界全体を覆っているように思われる。中央に依存する周縁の問題は、同じく周縁に依存する──汚いものを周縁に押し付けてきた──中央の問題でもあり(そしてその「汚いもの」は原発以外にも多々存在する)、生活が厳しくなる中で起こる分断は、アメリカ大統領戦やコロナ後に見た例えばSNS上の分断とそっくりだ。そして「復興」がもたらした防潮堤を見たときと同じものを私はあの東京オリンピックに感じてしまう。

では、東北の真の意味での復興に、現代社会に山積する数々の課題の解決に、何が必要なのだろうか。2つの本から図らず同じようなものを私は見た。

『新復興論』では、「賛成/反対、食べる/食べない、帰る/帰らない、県内/県外、支持/不支持、様々に二極化される福島」において、「外部」──ふまじめな人、物見遊山の人、勘違いしている人や、もしかしたら偏見を持っている人すら──切り捨てずに進むことが重要だと述べる。

 私がこの浜通りで見てきたものは、現場における思想の不在であった。一〇〇年先の未来を想像することなく、現実のリアリティに縛り付けられ、小さな議論に終始し、当事者以外の声に耳を傾けようとしない。いつの間にか防潮堤ができ、かつての町は、うず高くかさ上げされた土の下に埋められてしまった。復興の名の下に里山が削られ、ふるさとの人たちは「二度目の喪失」に対峙している。被災地復興は、いわば「外部を切り捨てた復興」でもあったのだ。(11ページ、『新復興論』)

そして、本の最終章、第3部では被災地である東北で行われたアートを、その土地が負う歴史とその文化──中央の下請けとしてではない──を紹介している。

一方で、『モノノメ』での東北にまつわる紀行文は以下のように締められる。

 しかし、今の僕たちはこの貧しさに対して、これまでとは違うやり方で対抗しようとしている。当時の仲間たちのうち、ある人は世界中の都市に自分たちのメッセージを伝えるアートを展開して、あるメンバーは義肢のプロジェクトのアイコンになることでこの国に決定的に欠けている多様性を訴える活動に注力している。僕も小さくても持続性のある、そして多くの後続に模倣してもらえるような新しいメディアの形を模索する運動を始めた。(中略)世間の中心にある、大きなものをハックするのではなく、それぞれがそれぞれの場所で自分なりの取り組みをして、それが中央に集まるのではなく横につながっていくことを考えている。やっちさんの言葉を借りれば、これも「気仙沼的な生き方」になるのかもしれない。

同時に、モノノメにおいて印象的なのは文章とともに、というよりそれ以上に、目に入ってくる東北で撮られた写真である。美しい海の写真、形式的な「復興」を象徴する写真、色々あるなかで、何より印象的なのは、数々の仮面ライダーの像たちである。「廃墟に立つ仮面ライダーを目にしてみたい」という「不謹慎な」動機で仮面ライダーの作者石ノ森章太郎の故郷石巻を訪れたと著者はいう。

これらから、私は「思想」「文化」「芸術」の、もっと言えばふまじめで不謹慎な社会との関わり方の持つ可能性を考えてしまう。
それは、現実のリアリティに絡め取られて、賛成派と反対派へと分断されてしまうほど近くなく、かといって観光で足を伸ばし地元の人たちの暖かさや形ばかりの復興にしか目が行かないというほど遠くはない、中距離の関わり方である。現場の軋轢や葛藤を見つめながら、それでも外部の人間として100年後にはこうなっていたいよねと言えるような姿勢である。例えば、風評被害で福島の魚が売れないなら、穫らないでおけば何十年後かに世界中どこでも見られないような大きな魚がとれる領域になるのでは、とか廃墟に立っている仮面ライダーは美しい、もういっそ上手く行かなかった復興をもう一度ライダーが壊してくれたらいいのにとかである。

冒頭の画像は、何を隠そう私にとっての東北へ行く「ふまじめな」動機である。初めて東北に行ったとき、知人の紹介で農家さんのお手伝いをしたのだが、そのときに食べたイチジクが忘れられないくらいおいしかった。だから、福島は農家さんがあのイチジクを作り続けられる土地であってほしいと願っている。

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