「書く」ということ~ちょっと暗くて重いけどEpisode 0的な話~

 単純に、社会人を前にして「書く」習慣は大事だよなと思ってnoteを始めたのだけれど、そうやって始めたnoteの下書きにあった、多分1〜2年前の私の書いた駄文。供養の意味を込めて。

わたしは「書く」こと、「伝える」ことが怖い。だけどそんな私が「書こう」と思ったそのいきさつを最初に書いておきたい。
小さいころから本を読むのが大好きで、人に話をするのも大好きだったわたしは「書く」こと、人を感動させることにあこがれた。たぶん、強烈に。だけど私には才能がなかった。いままで20年近く生きてきて、表現すること、理性だけではなく感性の要求されるようなことにおいて、評価されたことなど一度もない。そういうことで評価されたのは、うろこ1枚1枚色を変えて塗った竜の絵と、小2ににしては圧倒的な文章量で書いた作文ぐらいである。今思ってもわたしらしい。これはこれで好きなエピソードの一つではあるが、それでも私の自尊心を満足させるには事足りず、表現が評価されないことは私のコンプレックスの一つとして残った。それでも高校1年生くらいまでは「書く」ことで評価されることをあきらめてなかったように思う。というか今もあきらめきれないからこんな駄文を垂れ流している。毎回文集や自分の作文につくコメントを楽しみにしては裏切られて。でもそれを誰かに知られるのが嫌で。作文なんか適当に書いてるよ感を出して。でもそんな自分が嫌いで。いつのまにか自分の本音を表明することを否定した。そもそも「書きたい」のは、じぶんの考えを評価してもらいたいから。評価されずに否定されるくらいなら自分の中にため込んで抱えていきたい。そう思っていた。
同時にわたしはひとに自分の根幹にある思いを話したことが一度もない。外に出してしまえば、評価の「対象」になってしまう気がして。これが否定されてしまえば、もう私は立っていられなくなるような気がして。大好きな先輩、恩師、親友。そういった私の中の大きな存在に対してすら、書いた手紙をなかったことにした。会いたい、そんな言葉を飲み込んだ。ありがとう、好き、そんな言葉が持つ無条件さが怖かったから。誰に言われたってありがとうの言葉はうれしい。言われた相手は絶対喜んでくれる。でも、いやだからこそ、わたしの感謝の気持ちがどこかに行ってしまう感じがする。ほかの社交辞令的なありがとうの言葉と同じになってしまう。それが耐えられなかった。どんだけじぶんのことが好きなんだろう。だから、ありがとうの気持ちを伝えずに、伝えなかった罪悪感とともに十字架にしてその感謝を背負ったりしていた。
だけど去年、たぶん私史上最底辺のメンタルになって思った。だれも私を無条件で評価してくれる人なんていない。私自身がだれとも深いところで繋がろうとしてこなかったから。人を好きだと言いつつも、結局は自分のほうが好きなんだろうから。そんな人間と関わりたいと思わない。
わたしは今までだれのマイナスにもならないように生きてきた。だけど周りは思ったよりも誰かにとってプラスになろうと生きていた。賢いと思う。だけど気が付いた時には、もう前者の生き方が身についてしまっていた。なんど打ちのめしても、粉々にしても、湧き上がってくるプライドが周りに弱音を吐くことを許さなかった。そしてそのプライドを壊そうと自分で自分の心に刃を立てつづけてた。15才かよ、とも思うけど、ほんとうに心がばらばらになりそうだった。
立ち直ったきっかけは原因から逃げて、よく寝てよく食べた、という単純なものだ。そして今わたしが書くことを始めたのは、きっかけとなった文章があるからなのだが、それは一旦置いておくとして、わたしを発信しようと思ったのだ。自分の弱い部分、嫌いになるくらい大好きな部分、壊れそうなときも心に立っていた大事な樹を知ってほしい。そういう部分で人と繋がりたい。そう思ったのだ。まだ口で自分の思いや考えをさらけ出せるほど強くはない。だけど「書く」ことならできそうな気がする。
こんどこそ評価を気にせず、「好き」だから書くのだと、そう言いたい。

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