ヒロアカと呪術のはなし

「守りたい人」には優先順位がある。世界中全てを守りたいと願って、公平に人を守るなんていうのは、ヒーローじゃない。それはただの平和維持装置だ。物語にいるヒーローは、正しさの奴隷ではない、なぜなら彼らが使うのは結局は暴力だから。力だから。勝つことで何かを奪い取る行いを、「守る」と言っているだけだから。

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』連載 第十一回:純愛だよ÷ヒーロー

『呪術廻戦0』についてのこの随筆は、「純愛だよ」と言い放った主人公乙骨の話に続いていく。「正しさ」なんてないと開き直るニヒリズムや暴力の理由を大義名分に押し付けず、自らのエゴとして引き受けるその姿勢はかっこいい。そして強い。とてつもなく。

でも私は万人を救う「平和維持装置」であろうとする、そうであろうとしたキャラクターたちのことを考えてしまう。

それは例えば五条悟。
五条が「平和維持装置」とは意外かもしれない。彼はまさしく「天上天下唯我独尊」、わがままで暴力的でエゴのかたまりのように見える。上層部を「全員殺してしまおうか」と口走り、強者との戦いに愉悦を感じ、わがままを言って伊地知や七海を困らせる。でもそれは彼のセリフからくるイメージでしかない。
彼は基本的に上層部からの命令にしたがって任務をこなす。高専と距離を置き、任務を拒否している九十九の例がある以上、彼は自ら現権力の下に付き、自分のエゴではなく平和の維持のためにその力を使っていたといえる。そして彼の封印で世界のバランスが崩れたことから、彼の暴力装置として機能は政治的に大きな意味を持っていた。まるで軍隊や核兵器のように。
また彼の信念は基本的に「非術士」を救うことにある。そのために親友を殺し、教え子を危険にさらし、非術士をなるべく殺さずに戦ったために封印され、生き延びた漏斗に七海は瀕死に至っている。まさしく自分の守りたい人ではなく、(守るべきとされている)万人を等しく救おうとする平和維持装置だ。そしてそれは「呪術は非術士を守るためにある」と考えていたかつての夏油もあてはまる。

もうひとり別の作品でも平和維持装置として象徴的に描かれるキャラクターがいる。『僕のヒーローアカデミア』のオールマイトだ。彼はまさしく平和の象徴としてヒロアカ世界に君臨し、文字通り目の見える声の聞こえる範囲の万人をその力をもって救おうとする。その裏で一番近くにいたサーや彼自身を傷つけて。彼の師匠である志村菜奈も平和のためにAFOと戦い、一番守りたかったはずの息子やその孫を守れなかった。彼らは「正しさ」のために自らのエゴを捨ててシステマティックに人々を救うまさしく「装置」だ。

それぞれの作品における五条の封印やオールマイトの引退は、現代において私達が突きつけられているそういった機械的な「正しさ」の脆さや、軽薄さ、醜悪さを象徴している。その「正しさ」では救われなかった人たちがいて、その「正しさ」で傷つけられてきた人がいて、その「正しさ」は間違っていたのだ。伏黒も釘崎も夏油も真希さんも、死柄木もトガも荼毘もトヮイスもスピナーも、そういう「正しさ」に大切な人を傷つけられて見放されて戦っている。乙骨と同じ、自分が正しいなんて1ミリも思っていなくて、それでも自分や自分の大切な人のために、まちがった暴力をふるう。最初から間違っている彼ら彼女らの刃は、強くて、鋭くて、美しい。私達はその刃に見惚れて、そんな刃でもう全部切り刻んで薙ぎ払ってこの世界ごとぶっ壊してくれればいいのになんて思ってしまう。

それでも、主人公たちは機械的な「正しさ」に、万人を救うという綺麗事に拘泥する。

もう意味も理由もいらない。この行いに意味が生まれるのは俺は死んで何百年も経った後なのかもしれない。きっと俺は大きな・・・・・・何かの歯車の一つにすぎないんだと思う。錆び付くまで呪いを殺し続ける。それがこの戦いの俺の役割なんだ。

『呪術廻戦15巻』

たくさんの人を殺した。大好きな人たちを傷つけた。けれど・・・・・・!!OFAは殺すための力じゃなく助ける為の力なんだとオールマイトから教わりました。僕だけじゃない。オールマイトと・・・皆さんの培ってきた力が・・・数え切れない人たちの心を支えてきたと思うんです。原点が討つ為の力であっても!!皆さんが命を懸けて紡いでくれてもう一つ大きな意味を持つようになったんです!!殺して止める以外方法がないかもしれない。具体的にどうすればいいのかもわからないけれど僕はあの子を助けたい。

『僕のヒーローアカデミア31巻』

虎杖は、自分の「正しさ」の軽薄さを、自らの罪を突きつけられながらも、それでも一人のエゴで逃げるのではなく、七海をはじめこれまでの呪術師たちが紡ぎ、託してきた万人を守る装置の歯車としての役割を引き受ける。
デクはこれまでの「正しさ」が抱えてきた醜悪さである、「正しさ」が切り捨て見放してきたヴィランたちや、「正しさ」の犠牲として傷つき傷つけられてきたヒーロー自身やその周りの人々と向き合い、ほんとうの意味での「万人」を救おうとする。

もちろん彼らがその決断ができるのは、彼らが力をもった強者だからであり、権力の側にいるから可能なのだ。権力から見放された弱者である人たちは、自分と自分にとって大切な人を守るために必死になるしかない。でもその現実に差し迫られた力は、強くて鋭くて美しいその刃は、どうしようもなく閉鎖的だ。その力は、当事者と非当事者を問答無用に切り分け、過去これまで紡がれてきた歴史も、未来これからを思い描く理想も、切り捨ててしまう。

私達は幾度となく間違えてきた。
私達がうそぶく「正しさ」も所詮暫定的な「正しさ」でしかない。
未だに簡単に壊れ、薄っぺらくて、醜い。
それでもこれまでいくつもの過ちを経て、私たち人間はこの「正しさ」を未来へと託してきたのではなかったのか。
絶望のその強さや美しさにかまけてその「正しさ」をこれまでの歴史もこれからの未来も含めてぶっ壊してしまって良いのだろうか。

遅々として進まない地道な「正しさ」の追求作業から逃げずに、その脆さや軽薄さ、醜悪さと向き合うことを私は「力」と呼びたい。

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