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「釣り方を教える」という教員の比喩を保留したい。

【Information】
・1記事2000文字程度あります。
・気軽に書いていますので、根拠を示すような引用は少ないです。
・記事内容はやや偏った視点から書いています。

【想定している読者層】
・学校に関心のある方
・教員に関心のある方
・教育に関心のある方


1 結論

 「おなかがすいて困っている人がいました。あなたならどうしますか。」という問題があって、「その人の代わりに魚を釣ってあげるのは教師ではありません。魚の釣り方を教えるのが教師です。」みたいな例え話があります。この例え話は、もう終わりにしましょう。
 「一緒に魚の釣り方を考えたり、知っている釣り方を教えたり、教えて貰ったりしながら、一緒に魚を釣って、釣れたら喜びを分かち合い、時と場所を温めるのが教師です。その人によっては、いつでも頼ってもらえるようにそっと傍にいるだけでもいいのです。」みたいになりませんかね。

2 魚を釣ってあげたっていいよね

 「おなかがすいて困っている人がいました。あなたならどうしますか。」みたいな問題は、自由にその状況を設定することができますよね。

 例えば、特別支援や児童福祉施設では、「子ども達は自分の命を自分で守ることができません」といった話をすることがありますし、それは事実だと思います。

 だから、専門家の支援が必要になります。「残存機能が最大限発揮されるように」等ということもありますが、「何かしてあげないと死ぬ」という人も実際にはいるわけです。

 要は、釣ってあげる必要があるわけです。

 釣ってあげるのは教師の役割ではない、と一口では言えない部分がここにあります。

3 教えてあげたっていいよね

 なぜ「釣り方を教えることが、釣ってあげることよりいいのか」と言うと、「その人が自分で釣れるようになることで、その後も自分の力で生きていけるようになるから」です。

 ただ、どの教員も魚釣りの方法を知っているわけではありません。

 私は本当にたまたま魚釣りが好きだった時代がありますので、偶然にも教えられるのですが…、野菜の育て方とか、動物の育て方とかは無理です。授業でやりますが、授業程度です。

 要は、教えられないものは教えられないということです。

4 その人って魚釣りだけするわけではないよね

 とりあえず、一時の飢えをしのぐために、たまたま魚釣りができる状況にいて、魚が釣れそうで、近くにいた教師も魚釣りができれば、釣りを教えれば良いのですが、その人が釣りだけで生きていくわけではありません。

 釣った魚を肥料にして野菜を育てるかもしれませんよね。

 そして、教員も自分の人生があるので、どこまでもついていくわけにいきませんから、釣りを教えたらおしまいになるわけです。

 ここで、旧来の教師は「釣れたらほめる」みたいなことをします。

 それで自己肯定感を高めたり、できる事を増やせるとか思うわけです。

 釣れなかったら残念がったりするわけです。

5 Beingへの転換

 今の時代、「できたらほめる」では足りません。

 VUCAの時代において、その人がどこでどう生きていくかなんてだれにも分かりません。本人ならなおさら分かりません。

 そんな中で、「できなかったらほめられない」のは結構しんどいと思います。こんなに大変な時代に、存在していることそのものを認めて欲しいものです。

 何かをうまくできなくてもいい、健康で生きてさえいれば、それだけでとても価値あることで、あなたといられることがとても嬉しいと、そう教員には言って欲しいものです。

6 生き方を選べる人は0.001%

 こうなりたいと思ってなれたのは、大谷翔平さんくらいなものでしょう。
 すばらしいハーディネスの持ち主ですよね。

 普通は、目の前に現れた、取っ手もないドアが勝手に開くのを待つだけです。何だか知らないけど、そのドアが開いたからそこに行ってみた。
 そうして今を生きていると思います。

 だから、ゆっくりでいいのです。

 できた・できない、は競争的な発想になりがちで、効率や効果が求められたりします。それはそれでしんどい。

 だから、存在を承認していくことが重要です。

 そして、このことは、生徒指導提要に書かれています。

 大切なのはできたかどうかではなく、人とのよき思い出です。

 あの人といた時間は、なんとなく良かったな、と思えること、そして、あの時の自分は良かったな、と思えることです。

7 教員はそうされてきていない

 こういった発想は非常に新しい発想です、
 なので、今の教員にはピンとこないでしょう。

 公務員なんてもうからないという時代に教員になった人。
 受験戦争真っただ中で教員になった人。
 採用試験の倍率が高かった時代に教員になった人。
 ゆとり世代からなった教員。

 いろいろな時代を生きてきた教員はいますが、これらの時代で「存在承認」なんて言葉はありません。自然とできる教員もいると思いますが、そういう教員は、ごくまれではないかと思います。

 教員の研修や研究会などでも、なかなか先端にいないと存在論的な話は出てこないのではないかと思います。

 例えば、フッサールの現象学的還元、ハイデガーの配慮、レヴィナスの他者論とデリダの脱構築、ビースタのトランスクルージョン、ロジャーズの来談者中心療法等、色々な思想がありますが、そういった哲学的思想を元に存在論的な承認、共存的他者等について考えることは、今はじまったばかりです。

 だからこそ、ひとまず、魚釣りの比喩のエポケーが必要なのかなと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。