見出し画像

ペアトレから学んだこと

2歳のときに自閉症スペクトラムの診断がついた息子。その後は専門の先生にご指導をいただきながら育てるようになった。そうしていくうちにペアレントトレーニングというものに出会ったのだけれど、そこでわたしは思わぬ育児指導を受けることになった。

それは息子という個を普通の子にしようとせずに育ててくださいね、というもの。

療育と出会ってからニ年近く経過していた。わたしはそれまで、療育というものは社会では所謂普通と呼ばれる子に近づけるためにあるのだと思っていた。発達検査のときに側にいた保健師にそう言われたから。

「すぐにでも療育センターへ行って、少しでも普通の子に近づくように療育を始めてくださいね。まあ、普通の子にはなれないですけどね」と。

その人が言うには、今後息子が障害の域から出ることはなく、けれど今の状態のままでは困ってしまうでしょうから「普通の子」を模範にして少しでも普通の子に近づくための療育という訓練をしてくださいね、ということだった。


あれは何だったのだろうか。今から思うとその見解が誤りであったことを知る。療育を学べば学ぶほどにそれは個人の発達に応じてできることを増やしていくものであって、社会で生きていく為に必要なことを身につける手段であると理解する。

また、療育が普通の子に近づける類のものでないことは、ペアトレの先生が言う普通の子にしようとしてはいけないという話からも納得がいくのだ。

育児指導には続きがあって、子供のできないところにはできるだけ目をつぶり子供の良いところを褒めて伸ばすように、また、子供に無理をさせないようにと繰り返して伝えられた。

わたしが初めてペアトレの話を聞いたときは、子供が生ぬるく育つための条件かなにかですかと言いたくなるくらいの、子供に負担をかけないこの育て方を納得し理解できるまでには時間を要した。そのくらいわたしにとっては異次元の話だった。

恐らくわたしがこれまでに受けてきた教育が、列を乱さないように、できないことは努力して出来るように、叱咤されても強い心で乗り切るようにと親からも学校からも教えられてきたからではなかったか。それをできませんやりたくありませんと言える場所は用意されていなかったし、わたし自身も周りの大人がそう言っているのだからそういうものなんだろうと結論づけていたのだと思う。疑うことなど頭になかった。

それなのに息子の育て方といったら、とにかく自己肯定感を大切にするようにと、子供を否定しない育児を求められ更には変わるべきは親の方だと聞かされ続け、終いには耳にタコができあがったのだった。

わたしが想像する以上に息子は大変な思いで生きているらしい。よく分からないけどそうらしい。

ペアトレの先生は言う。

できたことや我慢できたことは見逃さずにその良い行動を始めたらすぐに褒める、親のやって欲しい行動を始めたその瞬間に褒めるようにと。遅くとも3秒以内に褒めること、5秒後では遅過ぎる。5秒後には望ましくない行動をしているかもしれないのに、5秒後に褒めたところで今度は間違った行動を学習してしまう恐れがあるのだと。また、直後に褒めないと子供は何に褒められたのか分からずに、褒めた言葉は親の独り言になるだけだとその人は重ねて言っていた。

褒める目的とはなにか、それは褒められたことでこれは良い行いなのだと子供が知り、それを繰り返すことで良い行動を子に定着させるためのものであり、そのために褒めるのだと。

誰かに頼らないとお手上げの状態だった息子の育て方を、他に教えてくださる方もいなかったこともあって、理解はしていなかったけれど言われた通りにやるしかなかった。それが息子とうまく暮らしていく方法ならば、それに倣うしかなかった。

一度その人にこう言ったことがあった。

「褒めるところなんてないのですが」と。

それでもなにかあるだろうかと頭をひねってみた。そうだ、息子には周囲を見ずに車道に飛び出す元気がありますが、と言ってみた。そうしたらそれは嫌味というものですから絶対に言わないようにと咎められた。

だったら何を褒めたらいいのかと問うと、癇癪の酷い息子に対し

「いま怒りそうになったけど怒らずに我慢できたね、えらかったねと言って褒めてあげてください」

と返ってきた。

褒めるタイミングも癇癪が起こる前の段階で褒めることや、その瞬間を見極めるようにと言うのだ。だからわたしはそれに従い、息子の様子を見逃さないように見張り、褒めるところを探すようになった。

これは言うは易く行うは難しというヤツでなかなかに難しかったのだけど、褒め方にも純粋にその良い行動を褒めるというやり方もあれば、やめて欲しい行動に対しても褒めることが効くのだなと興味深かった。そして、できたことを褒めるのは割と身についていったのだけど、見つけ出して褒めるというのが難しい。

それでもペアトレにより訓練されたことで褒めるという行動はうまくなっていったように思う、多分。まあ、だからといって息子に怒らなかったわけではなかったし、もう少し頑張ろうと催促することは何度もあったのだけど。

ただ、そのあとの息子の不安そうな顔やわたしを警戒する様子を目の当たりすると、嗚呼なんで怒っちゃったんだろうと後悔ばかりがやってきて、もっと冷静にならなければと振り返っては自己嫌悪に陥いることは今でもある。

親だって人間なのだから生きていれば怒ることもあるし、仕方ないときだってあるよねと思っていると、わたしがイライラした後に少し経ってからやってきて

「お母さん、さっき怒ってたよね」

と息子から苦情が入るので、身を縮めながら素直に謝る。

「お母さんイライラしてた、ごめんなさい」

そうすると息子はいいよと許してくれる。とてもありがたい。

あんなに癇癪を起こしていたのに、今では相当に腹が立たないと怒ることもあまりなく、癇癪の鬼だった子供とは思えぬ成長が輝かしいと親心に思う。


あのときに訓練されたペアトレが、わたしにどれだけの影響があって、実践として身につけられたのかは分からない。数値で表せるわけでもない。

もしかしたら、息子は口には出さない思いを腹に溜め混んでいるのかもしれないし。もっとこうして欲しいという思いや、そんな話は聞きたくないと思うときだってあるのかもしれない。

息子の年齢が、わたしがあまり首を突っ込むとウザいと思う年頃になってきて、聞きたい聞いて欲しいというその丁度いいところを狙ってそれとなく話しているつもりだけど、本人の希望通りにいっているのかは分からない。

「普通」などという誰の基準かも分からない不確かなものは、握り潰して遠い昔に捨ててきたはずだったけれど、それでも本人からしたら不満なこともあるだろうし、こちらは息子という人間を認めてはいても、もしかしたらすれ違っている部分だってあるのだろう。目に見えないのだからなんとも言えないけれども。

「ねえ、お母さん聞いてよ」

そうやってわたしに話してくるとき、ちょっと座って話を聞こうかと言って、温かいココアを作ってあげると息子の顔が少しだけ緩んでいる。

「お父さんとお母さんはあなたの味方だからね」

悩んでいるときには決まってそう言うようにしていて、息子はありがとうと言って安心したように脱力してハグをするのだけど、多分これは年相応の姿ではないのだろう。それでもあなたを大切に思っているよというこちら側の気持ちは、伝えられていると信じたい。

 
ペアトレで学んだこととは、一体なんだったのだろう。

それは知識や関わり方もそうなのだけれど、一番はあの頃わたしが失くしてしまいそうだった、息子の母親はわたししかいないんだという自信だった。振り向いてはくれない子の母親なんてやめてしまいたいと思うときに、少し見方を変えることで違った接し方があるのだと教えられ、それをきっかけに自分の考え方を変える役を担ってくれた。

わたしは恐らく何度となくペアトレに助けられている。どうしていいのか分からなくなって途方に暮れるとき、わたしも困っているけれど息子だって困っているのかもしれないと心を転換できるようになったのだから。困りごとが全てなくなったわけでは勿論ないのだけど、少しだけ息子に近づけるための手段のようなものが、わたしにとってはペアトレだったように思う。

「ねえ、お母さん聞いてよ」

そう言ってわたしを頼ってくれるのなら、息子の言葉に耳を傾けていよう。あの緩んだ顔を見られるように、またココアを作ろう。



スキしてもらえると嬉しくてスキップする人です。サポートしてもいいかなと思ってくれたら有頂天になります。励みになります。ありがとうございます!