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暇倫とアリスウォータース

暇倫(暇と退屈の倫理学をこう略すと友人に教わった)がすごいと騒いでいたら、周りからも情報がいっぱい流れ込んできて、高校の教科書に採用されているのだと知ったり、京大・東大で一番読まれている本だと知ったり、友人の友人だと知ったり、「責任の生成ー中動態と当事者研究」をおすすめされ、紀伊國屋書店からお取り寄せ(多分、19日に届く予定。すごいなぁ)したりして、きゃーきゃーしている。推し活とはこういう感じなのかと、若者のころにきゃーきゃーに乗り遅れたので、今ごろになって取り返している。

ジョアンナ・メイシーについてのオンラインのセミナーで、「今まで通りの物語」の説明を聞いているとき、ある人が「右肩上がりの成長とか、今まで通りの経済成長が無理とか、今どきのビジネスマンだったら、みんなわかってる常識だ」とコメント。わざわざ、セミナーで語らなくても的なニュアンスが伝わってきて、そうなのかなぁと感じたことがある。そうだとしたら、なぜ、やたらと、何もかもが「商品」となり「消費」される世界がひたすら続いているのだろうか。なぜ、「いぇい、俺たちいけてるぜ」的な、「それって本当に楽しいと感じてる? 無理やりハッピーとか無理やり楽しいモードじゃない?」とチャチャを入れたくなるような雰囲気がいまだに、そこここにいっぱい見え隠れするのだろうか。わかってることとできることは別ということだったりする、あれなのかもしれないけれど。

アリス・ウォータースの「スローフード宣言 食べることは生きること」の読書会も週末にやった。前半がファストフード文化について書いてあるのだが、ここ、読んでいると苦しくなってくる。暇倫でいうと3章にあたる部分かな。昨今の「時短」という言葉だったり、「買った方が早い」だったり。いろんなことが本当の「贅沢」とは逆方向に、ふんだんにあるのに、次々とものやことに埋め尽くされていくのに、なんかうらぶれている。心貧しい気分になる。みみっちい気分とでもいうのかな。

昔、スーパーやコンビニが出来始めて、白いビニール袋に商品が入れられて、背広姿でもお出かけ用ワンピース姿でもその袋を持って歩くのが普通になり始めたときに感じたガッカリ感と同質のもの。わびしい感じとでもいうのかなぁ。お買い物かごってのはどこへ行ってしまったんだ。

そんなわけで、前半のファストフードはさら〜っと終わらせて、後半のスローフードをみんなで読んでは語って約2時間。食べることはだれにでも関わりのあることで、言いたくなることは山ほどあり、ほぼほぼ、止まることなくシェアが続く。「働くこと」についての記述があったり、CSAに関心が集まったり、バークレーのエディブル・スクールの話題など、話は尽きない。そういえば、辰巳芳子さんも学校の花壇に大豆を植える運動をしていたな。

食べることも「暇倫」とは深くつながる。もちろん「分解の哲学」とも。「贅沢」って何かなぁ、「仕事」ってなんだろうねぇと思いながら、年末に買い込んだ糀で「甘酒」や「味噌」「みりん」「塩糀」「醤油糀」を仕込み、出来上がりをうっとり待っている。





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