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「原子力時代における哲学」読みました

國分先生の講演会を企画した。
タイトルは「グリーフと哲学の夜」
5月7日(日)夜7時から
場所は国分寺のカフェスローで。
もうちょっとしたら、Peatixでお誘いすることになる。

「原子力時代における哲学」はグリーフとはあんまり関係ないかもなぁ、
と思いつつ、「ジョアンナ・メイシーはそもそも、原子力利用への反対からその活動を始めている」ということを思い、そもそも的な感じで「これは、読んでおくべきかもしれない」と思いクリックした。

そうしたら、なんと原子力を語るのに、ギリシア哲学まで遡ってしまう。
けれども何かについて考える時、哲学という立場で「考える」というのは、
このようにすることなのか、というような驚きというか畏敬の念というか。

さらに、「うーん、考えるとなったらこれぐらいの深さで考える方に、1時間ぐらいのお時間しかさしあげないで、いいのだろうか」と、かなりな焦りを感じ始めた。何かの制限があるというのは、きっと大事なことなのだろうけれど。入り口の入り口で終わってしまったら、つまらない。

この本の中でもう一つ、グリーフを考えることとの共通性も見出した。それは、「それに気づくことを避けたい」という「あるけれど、見ないことにする」という心の動きかた。これは「グリーフ」に対しても同じようなことが起こりやすい。死別・離別などの体験は隠されやすい。周りからは「そっとしておこう」「触れないほうがいい」と優しさからでもあるけれど、見て見ぬふりをされることもある。自分から話すこともためらわれることが多い。

グリーフはジョアンナ・メイシーの理論やワークの中で大きく扱われている。システム理論的に言えば、世界で起こっているたくさんの悲劇に対して、しっかりグリーフを感じていないから、それを止めようという動きが十分に起こらないのだと考える。
ジョアンナのワークは4つのステーションをスパイラルを巡るように進む形で組み立てられているのだが、「新しい目で観る」「前へ進む」という第3、第4のステーションの前に、2番目のステーションとして「世界の痛みに眼を向ける」というものがある。痛みの中から、次なるものが生まれるという。痛いからこそ、なんとかしなくては、と動きが始まるとも言えるかもしれない。芽が出るためには、種が割れる必要がある、という言い方もする。心が痛むということは、そこに愛があるということだ、とも。
ちなみに第1のステーションは「感謝から始まる」というステーションだ。

國分先生のこの本にはハイデッカーの「放下」という文章が出てくる。
これが、なんとも中動態的で、それがまた、禅的でもあるのだよね。
ハイデッガーはジョアンナと知り合いだったんじゃないかなぁ。

「放下」をググったら國分先生の文章を見つけてしまった。
読んでも、読んでも、永遠に終わらないような気がするけど、読まねば!

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