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それを語っている「私」って

文学部にいると、当然、文学作品について幾つもレポートを書くことになる。
テクスト(小説)の外から歴史やら他のテクストやらを引っ張ってきて比較検討していくという書き方をする人もいるけど
私は基本的に、テクストの内部にとどまってその中であれこれと分析することが多い。

その時によく論点になるのが「語り手」について。
特に一人称小説の場合、小説の中で語り手の「私」が何を語っているのか、語っていないのかに注目しなければいけない。
視点が「私」ひとりに限られていて、また物語の中の回想も「私」の記憶に頼っているのだから、読み手の私はそれを鵜呑みにすることができない。
語られていることの客観性が認められないのだから、それを語っている「私」が明言しない「私」自身の立場や考えを抽出しながら物語全体を読んでいかなくちゃならなくなる。

この立場の「私」が、このことについて語っていることの意味ってなんだろう
と、考えをめぐらせてゆく。

文章を細かく見ていくことによって、「私」が意図していないであろう文脈が浮かび上がってくる。



こういった考え方を自分自身にも当てはめてみたりする。

ニュースや時事ネタを話している私
何かを批判する私
何かを絶賛する私

その「私」はどんな立場で、何を求めてそれを話しているんだろ
何を語らないで、なにを敢えてベラベラと語っているんだろ、客観的なフリなんかして



うーん、ただの独り言でした・・・





今日も最後まで読んでくれてありがとう
またね