【小説】顔を隠す人

このままずっと、マスクをつけて生きていきたい。
誰もが一つは後ろめたく薄暗い願いを抱えているとすれば、佳世かよにとって、それは顔を隠すことでした。

疫病が世界中を覆ってから、早一年が経ちました。
政府は感染拡大を食い止めようと、食事中など特例を除き、マスクの着用を徹底するよう強く求めました。要請は性生活にまで及び、婚姻関係にない者同士の「口唇の接触」はマスク越しにおこなうようにと異例の声明も。これには反発の声が多くあがりましたが、ドラマや映画のキスシーンは、次第にマスク越しが当たり前になっていきました。もっとも現実は、マスクを外してキスする者がほとんどでしたが。

丸一年もマスクを外さない暮らしを強いられると、人々はそれを日常だと思うようになります。
ただ、どんなにマスク生活に慣れたように思えても、人々は出口の見えない不安から、透明な縄で首を絞められているような息苦しさを常に感じていました。SNSでは毎日のように、マスクなしの生活に戻りたいと嘆く投稿が共感を呼び、拡散されていったのです。

ところが佳世は、マスクをつけ続けなければならない世になったことを、密かに喜びました。もちろん疫病は恐ろしいですし、終息してほしいと思ってもいます。ただ一方で、このまま一生マスク生活が終わらないでほしいという願いも、毒蛇が舌をにょろりと出すように浮かんでしまうのです。

佳世は物心ついた頃から、自分の顔の醜さに絶望していました。絶望させられた、と言ったほうがよいかもしれません。両親や二人の兄には「あんたは本当にブス」「お前と身内なのが恥ずかしい」と言われ続けました。学校では同級生が佳世の顔を盗み見てはクスクスと笑い、教師は佳世と目を合わせようとしませんでした。
佳世はかれこれ二十数年間、他人の言動の一つひとつを真正面から受け、自らの心にナイフで刻みつけていきました。人の目を避けるよう、常に猫背で顔を伏せて歩く。そうすることが醜く生まれた自分にできる唯一の償いだと思っていたのです。

疫病が流行るまで、佳世はアルバイト先を転々として暮らしてきました。食品工場のライン作業、メール便の仕分け、水道メーターの検針、閉店後の店舗の清掃。どのアルバイトも、ほとんど人と顔を合わさずに済む仕事です。それでも職場の人と面と向かって話さなければならない場面はあります。佳世はそのたびに眼前の同僚の視線に怯え、醜い自分がそこに存在することに耐えられなくなるのです。コップの水のように苦痛が溢れ出ると逃げるように辞め、次のアルバイトを探す。その繰り返しでした。

しかし皮肉ですが、疫病は佳世にとって一筋の光となりました。家の外ではいつ何時も、たとえ真夏であってもマスクをつけなければならなくなったため、自分の醜い顔を自然に隠せるようになったのです。

誰にも咎められることなく、常に目より下を覆えるようになり、佳世の心は次第に軽くなっていくようでした。一秒も覗きたくなかった鏡を、マスクをつけていれば直視できるようになったのです。
もちろん表に出ている腫れぼったい一重の目や三角形の眉毛に自信があるわけではありませんでしたが、顔全体を晒すよりも遥かにマシでした。

人の心とは不思議なものです。あれほど人を避けて生きてきた佳世は、人と接する仕事、つまり接客をしてみたいと思うようになったのです。疫病が深刻化するとともに、その小さな望みは無視できないくらいに膨らんでいきました。佳世が消去法で考えずに何かをやりたいと望んだのは、それが初めてでした。
もし佳世に親しい人がいれば、疫病が猛威を振るっているのになぜ、と止めたかもしれません。しかし、そんな人は誰もいませんでした。

「接客は初めてみたいですけど、大丈夫ですか?ひっきりなしにお客さんがやって来ますし、レジの仕事はなかなか大変ですよ」

隣駅のそばにあるローカルスーパー。蛍光灯がまぶしい事務室で、初老の店長は履歴書とマスク姿の佳世を交互に見ながら尋ねました。「大変」という割におっとりとした口調です。
佳世は頷くふりをしてうつむき、「はい。頑張りたいです」と答えるのがやっと。しかし、このご時世にスーパーのレジを志望する人は少ないのか、佳世の採用はあっけなく決まりました。幸運にも、マスクのまま撮った証明写真に言及されることもなく。

やはりレジの仕事は、店長の呑気な口ぶりとはかけ離れた苦労がありました。

カゴに山積みになった商品を、重さや形を瞬時に判断して会計用のカゴに整然と詰めていく。卵やパンのように潰れやすいものや軽いものはよけておき、最後にのせる。
十キロのお米や缶ビールのケースを持ち上げる。
なかなか読み取られないバーコードを、角度を変えたりパッケージのしわを伸ばしたりして何度もスキャナーにかざす。
バラ売りの野菜や鮮魚があれば、タッチパネルで該当の商品名を探して押す。佳世は最初、ズッキーニやアジの名前が分からず、お客さんを待たせて売り場に走って確認しました。佳世が慌てふためくあいだにも列は伸び続け、見かねた先輩がヘルプに入ることもしばしばでした。

覚悟はしていたものの、どの作業もたやすくありません。
しかし、佳世にとってカゴ詰めや商品を覚えるよりもさらに困難だったのは、お客さんに声かけすることでした。

「いらっしゃいませ」
「ポイントカードはお持ちですか?」
「2,917円でございます」
「ありがとうございました」

感染防止のため必要最低限の声かけのみでしたが、佳世はお客さんを前にすると額や脇の汗が止まらなくなり、声もうわずりました。

もしかしてお客さんに醜い顔を見破られているのでは?
不意にそんな恐怖に襲われるのです。
マスクのおかげでどうにか踏みとどまってはいましたが、もしマスクをしていなければ、たった一日で店を辞めていたでしょう。

休憩時間すら一筋縄ではいきません。
佳世は午前中に出勤し、お昼のピークが過ぎた後に一時間の休憩を取ることになっていました。狭い休憩室にはいつ誰が入ってくるか分からず、そこで昼食を食べる勇気がどうしても出ません。マスクを外した姿を誰にも見られたくなかったのです。そのため、佳世は休憩時間のたびに、制服のジャンパーを私服に着替えて外に出ていました。
ただ、従業員用の出入り口の横には商品の搬入口があり、いつも誰かしらが作業をしています。休憩中の外出は禁止されていませんが、佳世はどことなく後ろめたく、行きも帰りも早足で通り過ぎていました。

それでも作業中のスタッフに見つかってしまうことはあります。特に出くわすことが多かったのは、青果部の堀込さん。彼は佳世を見つけると必ず「大渕さん、休憩ですか?」「ゆっくり休んでくださいね〜!」「あ、おかえりなさ~い!」などと、よく通る声で佳世に話しかけました。その瞬間、彼の黒縁メガネが勢いよく曇るので、表情は見て取れません。佳世はいつも「あっ」と「うっ」のあいだのような低い声を出しながら会釈をして、ますます早足になるのでした。

佳世が昼食を食べる場所は、アルバイトの初日に決まりました。
あの日、スーパーのスタッフに会わないようにできる限り遠くへ行こうと考えた佳世は、踏切を渡り、人や自転車が行き交う駅前の商店街を小走りで進みました。
牛丼屋、立ち食い蕎麦屋、ハンバーガー屋……アルバイト生活の佳世の予算内で食べられそうなお店は、どこもガラス張りだったり、コの字型のカウンターだったりと、食事中の顔が丸見えになるつくり。店に入るのを想像するだけで、足がすくむような気がしました。

商店街の外れまで行っても入れそうなお店がなければ、もう昼ごはんを食べるのは諦めよう。そう覚悟を決め、佳世はくたびれたフリースコートのポケットに入れた財布を握りしめました。アルバイト初日で、まだ接客のロールプレイングや売り場の見学しかしていませんでしたが、佳世の全身はガチガチに強張り、喉は詰まっていました。冷たい北風が佳世のおかっぱの髪をめくり、額や耳を容赦なく突き刺すようです。

「喫茶 蜂鳥」を見つけたのは、そのときでした。

レンガ風の赤茶の壁には小さな格子窓が二つあり、橙色のライトだけが灯る店内がわずかに覗けます。暗くてよく見えませんでしたが、店の奥には、格子窓に背を向ける形でカウンター席が配されているようです。いかにも重そうな木の扉には「バタートーストセット 500円」などと書かれた黒板が掛かっています。

ここなら、大丈夫かもしれない。
佳世は意を決して、木の扉をゆっくりと開けました。ギギと扉が軋む音と、カラランと鳴るベルの音が、不安と期待がないまぜになった佳世の心を表しているかのようです。

初春の光に溢れる街とはそっと距離を置くように、「喫茶 蜂鳥」の店内は暗くひっそりとしていました。ダークブラウンのカウンターやテーブル。深緑のベロア生地のカウンターチェア。その暗がりの世界は佳世にとって恐ろしいものではなく、暖かなブランケットに潜り込んでいるかのような安心感を抱かせてくれました。小さなボリュームでかかるクラシックに合わせて、石油ストーブの上のやかんが機嫌よく歌っています。壁や調度品はコーヒーの香りのベールを何重にもまとっているかのようでした。

「いらっしゃいませ」

黒いベレー帽を深めにかぶり、アイロンのかかった白シャツを着たマスターらしき男性が、佳世に声をかけました。マスクからわずかに見える彼の顔は全く微笑んでいませんでしたが、佳世は不思議と怯えませんでした。
ベレー帽から覗く艶のない白髪、目尻に刻まれた深いしわ、骨張った手。特に佳世の目を引いたのは、首に巻いた赤いスカーフ。まるで闇夜の篝火かがりびのような鮮やかさでした。

佳世は曖昧に会釈し、できるだけ人目につかぬよう、カウンター席の一番隅に腰かけました。と言っても、お客さんは佳世の他にありませんでしたが。

のんびりとメニューを眺めて迷う時間もお金の余裕もなかったので、佳世は入り口の黒板で目についたバタートーストセットを頼んでみることにしました。佳世が伏し目がちに注文すると、カウンター越しのマスターは軽く頷くのみ。何も言わず、そのまま奥の厨房へ行ってしまいました。
一人取り残された佳世は、マスクを顎にずらしてお冷をひと口。レモンがほのかに香る冷たい水が、唾も出ずカラカラに渇いていた喉をツーと通ります。

「どうぞ」

ほどなくして、佳世の前にそっと置かれた白いお皿。赤いスカーフのマスターはたったひと言発すると、さっさと佳世から離れました。

「わぁ」

佳世は思わず、マスクの下でつぶやきました。

白いお皿には、こんがりときつね色に焼けた厚切りのバタートースト。格子状に切れ込みが入り、溶けたバターがじゅんわりと染みて艶々。真ん中にちょこんと乗った四角いバターは今にもするすると踊り出しそう。
さらにバタートーストの奥には、粗く潰したじゃがいもとゆで卵、ベーコン、クレソンを合わせたポテトサラダがこんもりと。その横の小さな白いカップには、淡いオレンジ色の人参ポタージュ。

カウンターの向こう端でコーヒーの生豆を選別するマスターをちらりと確認すると、佳世はできるだけ気配を消すようにしてマスクを外し、コートのポケットにしまいました。

まずは、バタートーストをひとかじり。外はカリッとしていますが、中はふんわりときめ細やか。トーストに閉じ込められていた湯気が、小麦のほのかな甘みやバターのしょっぱさと合わさり、口の中でふわりと膨らみます。佳世は顔を上げ、そのまま目をキュッとつぶりました。これほど美味しいバタートーストを食べたのは初めてだったのです。

ポテトサラダは、ベーコンの旨味や粒マスタードの爽やかな辛味が、ほっくりとしたじゃがいもによく合います。特に驚いたのはクレソン。佳世はクレソンの独特のクセが苦手でしたが、このポテトサラダではそのクセがむしろ良いアクセントとなり、なくてはならない存在に思えました。

人参のポタージュは、ぽってりとしてなめらか。人参や玉ねぎが合わさった深みのある甘さと、牛乳のやさしさが口いっぱいに広がります。香りづけに垂らしたオリーブオイルが、新緑の風のように時々吹き抜けます。

空腹感はあるものの食欲がなく、仕事中にバテないためだけに食事を詰め込もうとしていた佳世は、食べ進めるうちによだれがじゅわじゅわと溢れ、小石のような喉のつかえが洗い流されていくのを感じました。

トースト、ポテトサラダ、ポタージュ。ポテトサラダ、ポタージュ、ポテトサラダ、トースト。ポタージュ、トースト、ポタージュ。佳世はそれぞれを少しずつ、色々な順番で味わいました。この美味しさを余すところなくいただきたかったのです。くるくると踊り終えて寝そべるバターの香りを嗅いだり、じゃがいもの形をまじまじと見つめたり、目をつぶってポタージュの隠し味を探したり。そんな風に味わっていき、最後はカップの底に残ったポタージュをトーストの耳できっちりとさらいました。

佳世は両手を合わせながら無音のため息をもらしましたが、次の瞬間にはもうマスクをつけて立ち上がっていました。俯いてコートのポケットに入れた財布を探すふりをしつつ、相変わらず豆を選別しているマスターに伝票を渡します。

互いに話しかけることもなくお会計を終え、店に入ったときと同じように曖昧に会釈をしながら佳世が扉を開けた途端、真っ白な春の光の粒が一気に押し寄せてきました。

「ありがとうございました」

橙色の暗がりからマスターが発したひと言にもう一度背中を丸めると、佳世は光の粒に飛び込み、スーパーへの帰り道を急いだのです。

驚くことに「喫茶 蜂鳥」のバタートーストセットは、おかずが毎回変わりました。佳世がスーパーで働き始めてから、週五日のペースで一ヶ月以上通っているのに、です。

ある日は、ゆでた鶏むね肉と三つ葉を合わせたサラダに、切り干し大根のスープ。またある日は、色々な種類の豆と角切りセロリのマリネに、新玉ねぎを丸ごと一個使ったスープ。さらに別の日は、レーズンを散らしたキャロットラペに、芽キャベツやマッシュルームがごろごろ入ったシチューでした。

どれも今まで佳世が出会ったことのないおかず。たとえ知っている料理のように見えても、いざ食べてみると、必ず新鮮な驚きがあるのです。「コールスローに入ってる細長い粒はなんだろ?カレーみたいな味だな……」という風に、心の中でぶつぶつ。(家に帰ってからスマホで調べたところ、それは「クミン」らしいと佳世は知りました)
どのおかずも、シンプルなバタートーストにぴったり合うのは言わずもがなです。

初めて「喫茶 蜂鳥」を訪れた日は佳世しかいませんでしたが、毎日のように通うにつれて他のお客さんがいることも増えてきました。佳世はいつも「今日こそ端の席に誰かが座っているかもしれない」と緊張しながら木の扉を開けますが、なぜかその席だけは、まるで佳世が来るのを待っていたかのように空いているのです。
橙色の仄暗い店内のおかげで、佳世は隣にお客さんがいてもビクビクせずにトーストをかじることができました。もちろん食べるとき以外は、絶対にマスクを外しませんでしたが。

おかずは毎回変わり、店内も穏やかな活気に包まれるようになりましたが、マスターの黒いベレー帽と、首元の真っ赤なスカーフは変わりありません。食べ終えた佳世が首をひょこっとすくめながら店を出るのも。「とっても美味しかったです」と伝えようと毎度意気込むのに、マスクの内側で言葉がしぼんでしまうのもお決まりでした。

肝心のレジの仕事はというと、一ヶ月以上が経ち、ようやく体と頭が慣れてきてくれたようです。
一つの商品をスキャンしているあいだに、その次、そのまた次にスキャンする商品の目星をつけられるようになりました。
バラ売り商品のタッチパネルの配置を覚えて、素早く押せるようにもなりました。
お米を持ち上げるときは、お腹の中心にぐっと力を込めると幾分軽くなることも発見しました。

佳世は特別要領がよいわけではありませんでしたが、先輩に教わったことを逐一メモして、懸命に覚えようとする素直さはあったので、着実に仕事がスピードアップしていきました。
休憩時間になると逃げるように姿を消す佳世に対し、最初のうちはスタッフのほぼ全員が「何あれ、変な人」「コミュ障なんでしょ」などと陰で噂していたよう。しかし、佳世の仕事への姿勢を見るにつけ「まあ、やることちゃんとやってくれるならいいけど」「まあね」といった反応に変わっていったのです。

レジ打ちがある程度できるようになると、佳世はたまに野菜の品出しに駆り出されるようになりました。青果売り場に行くと、たいてい黒縁メガネの堀込さんが、その日の特売野菜を得も言われぬ速さで陳列しています。

「あ〜、大渕さん!助かります!」

彼は佳世の姿に気付くといつでも、搬入口で出くわすときのように黒縁メガネを曇らせました。手を止めずに指示を出す彼の横顔をたまに覗き見ると、黒縁メガネから二、三本のしわが伸び、マスクの頬骨のあたりがぷかぷかと動くのが分かります。

笑ってる、のかな。
たった数センチ幅にあらわれる、表情とも言えぬ表情が、なぜか佳世にはまばゆく感じられて仕方ありません。

「じゃあ大渕さん、ここにスナップえんどうを並べてください!」
「はい」
「値段のシールが上になるようにお願いしますね。面を意識して並べるのがコツです」
「めん」
「スナップえんどうを見ると、春が来たな〜って思いますよねぇ」
「……」
「この柔らかい緑色と、ぷっくりした形が好きなんですよねぇ。僕はミニトマトを並べていきますね。緑の隣に赤を置くと、引き立て合ってくれるんですよ。つい同じような色をまとめて陳列したくなるんですけど。この組み合わせ、サラダとかお弁当の彩りにいいですよね。あと、卵と一緒に炒めるのも美味しいんですよね。いやぁ、春だなぁ」
「勉強に……なります」
「大渕さん、いつも本当に真面目ですよね。素晴らしいな〜」

堀込さんが佳世に顔を向け、黒縁メガネを曇らせながら笑うと、佳世は慌てて俯くのでした。誰かに蔑まれたり憐れまれたりする以外で笑いかけられるのは、記憶にある限り初めてで、どう反応すればよいのか分からなかったのです。

お客さんへの声かけも、過度に緊張することなくできるようになりました。レジ打ちの回数をこなすにつれ、ほとんどのお客さんは佳世のマスクの下の醜い顔など気にも留めず(あるいは気付かず)、佳世の手つき、つまり仕事ぶりしか見ていないと気付いたからです。顔で判断されないことは、佳世にとって喜び以外の何ものでもありません。だから佳世は余計に、少しでも速く正確にレジを打ち、きれいにカゴに詰められるようにならねばと思うのでした。

ただ、佳世がどんなに努力を重ねても、マスクの下では二十数年ものあいだ負い続けた傷がじくじくと膿んでいるのは変わりありません。かさぶたを無理やり剥がすように、ひょんなことでその傷は顕になり、佳世を暗闇でのたうち回らせるのです。

スーパーから駅に伸びる桜並木が五分咲きとなった日曜日の夕方。店内は買い出しのお客さんでごった返し、どのレジも長蛇の列。こんなときは列を見てしまうと焦ってミスを起こしやすいので、佳世は目の前のお客さんだけに集中することに決めていました。次々と置かれるカゴの商品をスキャンしては横に流し、スキャンしては横に流し、合間にお客さんに声をかける。それをただただ無心で繰り返すのです。

「お待たせしました、いらっしゃいませ」
「あの〜、もしかして西中の大渕さん?」

不意に呼びかけられた佳世は一瞬にして体を強張らせ、斜め下に向けていた目線を恐る恐る上げました。
佳世の正面には、くっきりとした二重に長くて濃いまつ毛の女性。鼻根が高く、まっすぐ鼻筋が通っているのがマスクをしていても分かります。明るく艶のあるロングヘアが、ベージュのノーカラーコートの上で優美なウェーブを描いています。

中学二年のときに同じクラスだった相原さんだと、卒業から十年ほど経っているのにすぐに気付きました。面と向かって話したことは一度もありませんが、当時、クラスの集合写真の中央に写る彼女の顔を食い入るように見つめていたのですから。豆粒ほどの大きさにしか写っていなくても、まっすぐにこちらを見据える相原さんの美しさは際立っていました。三人挟んで座る陰気で醜い顔にシールを貼って隠したことも、佳世はありありと思い出せました。せめてシールくらい可愛いものをと、お気に入りの苺のシールを選んだことも。

「なに、麻由。知り合い?」

三歳くらいの女の子を抱っこした背の高い男性が相原さんに問いかけます。男性は相原さんと同様、大きくてはっきりとした目。眉の下が窪み、濃い陰影をつくっています。もちろん女の子も整った顔立ちで、将来を約束された美しさがすでに放たれていました。

「うん、知り合いっていうか、中学の同級生」

相原さんは男性に返すと、佳世の目を見ながら笑いました。

「地元から出てたんだね〜。大渕さん、ぜんっぜん変わってないからすぐ分かった」

佳世はとっくに斜め下に目線を戻し、いつも以上に背中を丸めながら「そうなんです」と消え入る声で答えました。全身から冷や汗が噴き出て、手の震えが止まりません。スキャンし慣れているはずの牛乳や納豆のバーコードがどこにあるのか分からなくなり、ようやく見つけても何度もスキャンに失敗する始末。どうにかお会計を終えて「ありがとうございました」と挨拶すると、相原さんは「どうも」と素っ気なく返し、男性と女の子が待つサッカー台に向かいました。

「すっげーブス。せめてアイプチくらいしろよな」
「やめなよ悠太〜。聞こえちゃうよ?」

この後、退勤時間までどうやって仕事をこなしたのか、佳世はほとんど記憶にありません。相原さんたちの声が、頭の中でドラム缶が蹴られているかのようにぐわんぐわんと響き続けていました。手だけでなく足も震え出し、立っているのがやっと。それでもお客さんの列は途切れないので、ひたすらレジ打ちをしたのでしょう。

スーパーから駅までの帰り道、夜桜が月明かりを受け止めてぼんやりと光っていましたが、佳世は足元の真っ黒なアスファルトしか見れませんでした。いえ、アスファルトさえ見ていなかったかもしれません。
地面から伸びる闇に手を引かれて、ひっそりと消える。生きてきて何十回と想像した場面が脳裏に浮かびます。

「大渕さ〜ん!お疲れ様です!」

この日二度目の突然の呼びかけに、佳世はやはり首をすくめて硬直しました。こわごわと振り向くと、息を上げて肩を揺らす堀込さん。すでに黒縁メガネは曇っていました。

「いや〜、大渕さんっぽい人が前にいたから走っちゃいました!帰りが一緒のタイミングになるの初めてですね」

行き帰りに誰にも会わないようにいつも用心しているのに、よりによって今日。しかも、一番会いたくなかった相手です。
佳世は自分の顔ができるだけ闇に紛れるように下を向き、「お疲れ様です」と返しました。

「今日は混みましたね〜。それにしても大渕さん、すっかりレジに慣れてすごいですね!もうベテランさん並みのスピードじゃないですか。お客さんへの応対も丁寧だし。大渕さんが入ってくれて本当に心強いです」
「そんなこと全然ないです」
「そんなことありますよ。売り場からも勇姿が見えてますよ」
「ゆうし」
「あっ、勇ましい姿、です」
「勇姿……ありがとうございます」
「今日の青果売り場は熊本のトマトがよく出ましたねぇ。トマトの旬って実は春なんですよ」
「あっ……売り場でPOPを見ました。トマトはアンデス山脈が原産で」
「おぉ、見てくれて嬉しいです!あれ、僕が書いたんですよ〜。アンデス山脈って日差しが強くて昼と夜の寒暖差がある土地で。だからトマトはそういう気候が好きなんですよね。日本だとちょうど今くらい。この時期に育ったトマトは味がぎゅっと凝縮していて瑞々しいんですよ。旬の野菜の美味しさはたまらないですからね。お客さんにも旬を味わってほしいんですよね〜」
「……本当ですね」

堀込さんは「うんうん」と頷くと、そのまま黙り込みました。それは数秒だったのかもしれませんが、佳世には一分くらいの長さに感じられました。沈黙に耐えきれず堀込さんの横顔をそっと覗こうとしたら、いつの間にか彼もこちらを向いていたので驚き、佳世はそのまま目を逸らせなくなりました。堀込さんの肩越しの夜桜が音もなく揺れています。

「大渕さん、もし良かったら今度ごはんに行きませんか」
「えっ」
「こんなご時世なので黙食になっちゃいますけど」
「あの……」
「もちろんご迷惑じゃなかったら、です」
「でも、堀込さんは見てないから……」
「えっ?」
「堀込さんは見えてないんです……すみません!私急ぐので!」

佳世は自分でも驚くほど大きな声を出し、堀込さんの返事を聞かぬまま走り出しました。堀込さんが何か言ったような気がしましたが、後ろを振り返れるわけがありません。滲んだ夜桜がどんどん後方に流れていきます。

佳世は駅の改札に向かわず、踏切を越えました。涙と鼻水と吐く息でマスクが濡れるのも構わず、俯きながら走りました。

相原さんの顔だったら良かったのに。
相原さんの顔だったら堀込さんとごはんに行けたのに。
相原さんの顔だったら接客に自信をもてたのに。
相原さんの顔だったらもっとうまく生きられたのに。
相原さんの顔だったらみんなに愛してもらえたのに。
相原さんの顔だったら。

ついに息が切れ、立ち止まったのは「喫茶 蜂鳥」の目の前でした。無意識にここに来ようとしていたのでしょうか。毎日のように通っているから、体が覚えてしまったのでしょうか。
佳世はマスクの上から冷たい空気をめいっぱい吸い込みながら、風で乾きかけた涙をフリースコートの袖で拭いました。格子窓から漏れる橙色の暗がりは、夜に見ると商店街のどのお店よりも明るく、やさしく感じられるのだから不思議です。

初めて「喫茶 蜂鳥」に入ったときと同じくらい緊張しつつも、佳世は引き寄せられるように木の扉を開けました。
もしこのまま駅に引き返していたら、本当に闇に飲み込まれていたかもしれません。

「いらっしゃいませ……あらまあ!」

いつものようにマスターが淡々と出迎えてくれると思い込んでいた佳世は、思わず顔を上げました。マスターの声が普段より高く感じられたのです。

佳世の目の前にいるのは間違いなくマスターです。ただ、赤いスカーフは首ではなく頭に巻かれていました。いつもは隠れていた椿の花の柄がよく見え、マスターの白髪に美しく映えています。首元には、二連のパールのネックレス。

「夜にいらっしゃるのは珍しいから、驚いてしまってごめんなさいね。どうぞお掛けになって」

目尻に刻まれた無数のしわが、より深くなる微笑み。
佳世は戸惑いながらもカウンター席の端に腰かけます。お客さんは佳世の他に誰もいません。

「いつもと様子が違うからびっくりされたでしょう?夜だけは自分の好きな格好をしようって決めてるんです。夜の闇に紛れれば許される気がして。こんな風にたまにお昼のお客さんがいらっしゃると、皆さんぎょっとした顔をされますけどね」
「……すごくお似合いだと思います」

俯きながら返した佳世にマスターは「うふふ」と愉快そうに笑い、そのまま続けます。

「今ちょうど新しいメニューを試作していたところなの。いつかあなたに食べていただきたいなと思っていたから、あなたが来て本当に心臓が止まりかけたわ。もし良かったら試食してくださらない?」
「えっ」

今度は佳世の心臓が止まりそうになり、思わずマスターの目を見ながら「私、ですか?」と尋ねました。泣いたせいで、いつも以上に腫れぼったい目になっているのも忘れて。

「お腹は空いてるかしら?今焼いてるのよ」

マスターは佳世の質問には答えず、奥の厨房に引っ込んでしまいました。

どうして私?
佳世はお冷を飲んだり、手のひらで顔を覆ったり、鞄を意味もなく開けたりして、そわそわと落ち着きません。

「お待たせしてごめんなさいね」

10分ほど経ったでしょうか。
マスターがカウンターの正面から白いお皿を出してくれました。どことなく、いつもよりしなやかな手つきで。

「春キャベツとトマトのラザニアです。とにかく熱々だからヤケドに注意ね」
「わぁ」

佳世は初めてバタートーストセットを見たときのように、マスクの下でつぶやきました。いいえ、あの日よりももう少し大きな声だったかもしれません。マスターがこっそりウインクしましたから。

今まさにオーブンの熱風とともにやってきたラザニア。チーズがたっぷりかかった表面はよい焼き色がついて香ばしく、クツクツ、プスプス、ジジジジと賑やか。平べったいパスタのあいだから、具沢山のミートソースと、とろりとしたホワイトソースがこぼれています。

佳世は生唾をごくんと飲み込み「あの、本当にいただいていいんでしょうか……」とマスターに尋ねました。

「もちろんですとも。お口に合うといいんだけど。かなりいい線いってるとは思うのよ」

マスターは半分独り言のように話すと、カウンターの向こう端に行ってしまいました。それは、いつものお昼と同じ。

マスクを外す瞬間、相原さんたちの言葉に引きずり込まれる感覚に襲われかけましたが、目の前のラザニアの存在感はそれよりも圧倒的でした。熱、音、香り、形、その全てで佳世を静かに抱きとめてくれたのです。

思わず息を止めながら、長方形のラザニアをナイフでゆっくり切ると、いつものバタートーストの比ではないほど湯気が上がりました。ふわぁっと?いえいえ、ふわぁぁぁぁです。そして現れる、端正な断面。白と赤茶、黄色の層に差し込まれた、若々しい春色。

ひと口食べれば、想像よりもずっと熱々。「ほふっ、はふっ」と自然と漏れ出てしまい、佳世は少し気恥ずかしくなります。
もちろん、味も格別。
なめらかでコクのあるホワイトソースと、むぎゅっと肉肉しい濃厚なミートソースが、たっぷりのチーズと一緒にとろけて、旨味を引き出し合います。そこに、キャベツの柔らかい甘みと、トマトの弾けるような酸味が加わることで、軽やかなリズムが生まれているのです。
つるんとして歯切れのよいパスタが全体のまとめ役。でも端だけはチーズとともにカリッカリに焼けていて、特別なオーラを放っています。佳世はナイフでコツンとつつき、ここは最後のお楽しみにしようとこっそり誓いました。

「すごく、すごく美味しいです。ありがとうございます」

佳世は両手で鼻と口を覆いながら、カウンターの向こう端、少し離れた場所でいつも通りコーヒー豆を選別するマスターに話しかけました。一ヶ月以上、毎日伝えようとしてはしぼませてしまった言葉です。声は少しうわずっていたかもしれません。

「あら良かった!こちらこそ食べてもらえて嬉しいわ~」
「……あの、どうして私のことを思ってくださったんですか」

佳世がおずおずと尋ねると、マスターの目元はいっそうしわくちゃになります。

「うふふ、そうね。私ね、もうここを閉めようと思ってたの。ずっとこじんまりとやってきたけど、このご時世でお客さんがいよいよ減っちゃって。やめ時かしらって思ってたのよねぇ。あ、ベラベラ喋ってるけど気にせず食べてちょうだいね。熱々のうちに」

佳世は少しためらいましたが、顔から両手を離し、再びナイフとフォークを持ちました。ラザニアからはまだ細い湯気がひょろひょろと出ています。

「まあ、ひと言で言うと気力をなくしてたの。そんな矢先にあなたが来てくれて、私を救ってくれたのよ」
「私が……?」
「うふふふ、そうよ~。だってあなた、バタートーストセットをすっごく美味しそうに食べてくれるんだもの。あなたが初めてその席に座って、それはもうびっくりするほど、ひと口ひと口大切に食べてくれるのを、私ここから横目でこっそり見てね。もう目が釘付け!お客さんが食べてる姿を覗くなんて、本当は失礼なんだけど。ごめんなさいね。『ああ、私、お客さんのこんな表情を見たくてお店を始めたんだった』って、もうずっと前に忘れてしまった気持ちをあなたが思い出させてくれたのよ」
「そんな……」

自分の顔がカッと熱くなり、耳まで真っ赤になっていくのを感じ、佳世は慌てて俯いてラザニアを切りました。生まれて初めて、この顔に対して尖っていない柔らかな言葉を渡されたのですから、うろたえるのも無理はありません。

「実はね、あなたが来てくれるようになるまで、おかずは日替わりじゃなかったの。お客さんが全然来なかったから、ほぼ毎日同じメニューよ。うちは喫茶店だし、料理には力を入れないでもいいやって思ってたの。でもあなたが初めて来た日、『もしかして明日も来てくれるかも』って思ったら、いてもたってもいられなくなってね。違うおかずを準備してみたの。そうしたらあなたはまた来てくれて、やっぱりすごく美味しそうに食べてくれて。私、嬉しくて嬉しくて。あなたが喜ぶといいな、今度はあれとあれを組み合わせて作ってみようかな、味と彩りのバランスもよくして……なんて張り切ってやっていたら、いつの間にか毎日違うおかずになってたのよねぇ。採算度外視もいいところ、ふふ」

佳世は俯いて頷くだけで精一杯。橙色の暗がりにラザニアがじんわりと滲んでいきます。

「若い子たちのあいだでは、こういう存在を『推し』って言うんでしょう?ちょっと違うかしら?まあとにかく、あなたのおかげで毎日がとても色鮮やかになったのよ。一度エンジンがかかったら、どんどん新しいことに挑戦したくなって。一品で心が満ち足りるようなメインディッシュもあればいいなと思って、ラザニアを試作していたの。あなたはいつもバタートーストセットを頼んでくださるけど、いつか食べてもらえればいいわねぇ、なんて思いながら。まさかすぐに叶うとは思わなかったけど」

マスクをつけた頬に節くれ立った指を添え、マスターは佳世に再びウインクしました。赤いスカーフが艶やかに光ります。

「すみません、びっくりして……私、ひどい顔なのに」

佳世は声を震わせながら言いました。最後まで大切に取っておいたカリッカリの端っこに、涙が一粒、二粒、ぽたり。
マスターは目元をしわくちゃにしたまま、佳世を見つめます。

「ひどい顔なんかじゃない。あなたは美しい人よ、一ミリも疑いようがなく。おじさんだかおばさんだか分からないような私に言われても、ちっとも嬉しくないかもしれないけど。あなたが食べ物を慈しみながら味わう姿は、それはそれは美しくて尊いのよ」

佳世は首を横に振りかけましたが、思いとどまりました。夜桜の淡い光の中に立ち、「今度ごはんに行きませんか」と言った堀込さんの顔と声がふとリフレインします。いいえ、本当は、ラザニアが目の前に出されたときも、焼かれて味がますます濃くなったであろう春のトマトを食べたときも、彼を思い出していました。それどころか、もっともっと前から、佳世の心の中にはずっと堀込さんがいたのです。

「ベラベラと喋ってごめんなさいね。でも、もう一つだけ言わせてちょうだい。あなた、きっといつもお仕事の休憩時間に来てくれてるのよね?あなたの顔ね、毎日少しずつ凛々しくなっていってるの。責任感をもって、葛藤しながらも懸命に働く人の美しさだと思うわ。あなたを見ていると、美しさは育めるんだって実感するの」
「美しさは育める……」
「そう。愛と同じように、美しさは育めるのよ。この世には、誰かに美しさの種を蒔いてもらえる人も確かにいるわね。でも、自分でも種を蒔くことができる。大人になってからでも、いつでも。あなたは自分で種を蒔ける人なんだと思うわ。自分で種を蒔く分、美しさは強く育ち、枯れにくいの。私もいい歳だけど、自分の美しさを育んでるところよ。ふふふ」

佳世はどうにか「ありがとうございます」と言い、残りのラザニアを食べました。カリッカリの部分は、こばれ落ちた涙でほんの少しふやけたでしょうか、しょっぱくなったでしょうか。最後の最後まで温かく、やさしい味だったのは間違いありません。

「本当にいつかお店を閉めてしまうんですか……?」

帰り際に佳世が尋ねると、マスターは首を傾げました。

「そうねぇ、きっと近いうちに。一ヶ月後かもしれないし、一年後かもしれない。あなたに出会えたおかげで、私がここでやりたかったことは叶えられたんじゃないかと思うの。だから、心機一転しなきゃね。私ももっと美しさを追求したいわね」
「すごく寂しいですが、そのときが来るまでは毎日通わせてほしいです。明日も来ます」
「ふふ、ありがとう。もし私が力尽きて、前と同じおかずが出てくるようになっても許してちょうだいね」
「もちろんです。どんなおかずでも嬉しいです。ちゃんと採算も取ってください」

佳世が木の扉を開けると、墨色の空に白のクレヨンでぐりぐりと塗ったような月が浮かんでいました。商店街の灯りが、闇の切り取り線のように並んでいます。

「ありがとうございました。またお待ちしていますね」

振り向くと、橙色の暗がりからマスターがゆっくり頷きます。仄暗くてあたたかい、不思議な場所。
佳世は「本当に美味しかったです。ごちそうさまでした」と言い、木の扉をそっと閉めました。

ラザニアの夜の明くる日以降も、佳世は闇に飲み込まれることなく、スーパーに通い続けました。
できる限りスピーディーに、でも雑にはならないようにレジをこなし、休憩時間になれば搬入口の横を通って「喫茶 蜂鳥」に向かう。堀込さんに出くわしたらどんな反応をしようかと悩みましたが、タイミングが合わないのか堀込さんはいません。誰かに会わずに済んでホッとした気持ちに、胸を締めつけるような寂しさが幾重にも重なるのは初めてでした。

「喫茶 蜂鳥」に行けば、例のごとくカウンターの端の席は空いていて、マスターが言葉少なにバタートーストセットを出してくれます。おかずが毎日違うのも、マスターの首元に赤いスカーフが巻かれているのも相変わらずでしたが、小さな変化も。佳世は帰り際に必ず「ごちそうさまでした」と声に出し、マスターは「ありがとうございました」と言いながらウインクするようになりました。

桜並木に花びらのじゅうたんが敷きつめられた平日の、まるで凪のように穏やかな午後。佳世はレジでお客さんを待ちながら、ネギの頭に巻いたり肉のパックを入れたりするポリ袋をストックしていました。ポリ袋の口を開いては指でくしゅくしゅと手繰り寄せ、開いては手繰り寄せ、次々と棒状にしていきます。

そのときでした。

「だっこ!だっこ!だっこ!ままだっこ!!」

小さな子どもの泣き叫ぶ声がサッカー台から聞こえてきたのです。
佳世が急いで目を向けると、そこには床に腹ばいになって手足をバタつかせている女の子。その横には、相原さんの姿がありました。
佳世は心臓を握り潰されるかのように、一瞬で呼吸が苦しくなりました。数日前の相原さんたちの尖った言葉が、全身を引っかきまわしながら駆け巡ります。

「ひなちゃん。ママお買い物したものを袋に入れなきゃいけないから、今は抱っこできないよ?ちょっと待ってて?」
「やだやだやだやだやだやだ!!だっこ!!だっこだっこだっこ!!」
「ちょっとだけだから、お願い待ってて?おうち帰れないよ?」
「やだやだやだやだ!!やだのー!!」

ますます泣き叫ぶ女の子。相原さんの長いまつ毛が下を向いているのが、遠目でも分かります。様子を窺うように静まり返る、周りのお客さん。場違いな明るさを振りまく、賑やかな店内BGM。

佳世はジャンパーの裾をギュッと掴むと俯きかけていた顔を上げ、売り場と他のレジを素早く見渡します。大丈夫、お客さんは来ない。「レジ休止中」の案内札をレジ台に置くと、店内放送で「二番レジ応援お願いします!」と早口でアナウンスし、そのままレジを飛び出しました。

「あのっ、お客さま!袋詰めをお手伝いします!」

佳世は滑り込む勢いで相原さんの隣に立ち、彼女の横顔に話しかけました。声が裏返っているのも構わず。

「えっ、あっ」

集合写真で何度も見つめた大きな瞳が、こちらを向きます。佳世は返事を待たずに、相原さんの買い物カゴのそばにあったエコバッグを広げます。同時にカゴの中身を確認し、袋詰めの難易度と順番を頭の中で弾き出します。

冷凍うどんは底に入れて。良かった、卵はない。でも、苺がある。
ねえ、四角いカゴに移すのとはわけが違うけど、うまく入れられる?私、お客さんの袋詰めなんてしたことないよね?ううん、大丈夫、基本はカゴと同じなはず。大丈夫。

佳世は左手にエコバッグを持ち、右手で次々と商品を詰めていきます。

冷凍うどん、三個パックのりんごジュース、ヨーグルト。

両手が小刻みに震えます。

キャベツ半玉、冷凍焼きおにぎり。いや、やっぱり先に鶏もも肉?

相原さんはどうしているでしょうか。女の子を抱っこしたでしょうか。泣き声がやんだので、抱っこしたのかもしれません。

ブロッコリー、ウインナー、ちくわ。ここからはより慎重に。ほうれん草は縦にしてエコバッグに添うように。アスパラはほうれん草の横に立てる。もやしはあえて寝かせる。

佳世は最後に、クッション代わりのもやしの上に苺のパックをのせました。きらきらと光る真っ赤な実が潰れないように、そっと。

できた。たぶん大丈夫。

「すみません、ほんとに助かりました」

佳世がエコバッグを渡すより先に、相原さんが口を開きました。相原さんに抱っこされた女の子は体をひねり、くりくりとした瞳でご機嫌そうに佳世を見ています。涙は跡形もなく、本当にさっきまで泣いていたのかしらと思うほど。

「いえ、とんでもないです!出しゃばってしまい、申し訳ありません……」
「この子イヤイヤ期の真っ最中で、ああなると大変だからすごく助かりました。ありがとうございます」

佳世をまっすぐに見つめながら話す相原さんを、佳世も見つめ返しました。集合写真と同じ、切れ長のはっきりとした目。集合写真には写っていなかった、涙袋の下のうっすらと青いクマ。きっと、葛藤しながら育んできた美しさのしるし。

相原さんの肩越しに「ばいばーい!」と叫ぶ女の子に小さく手を振り、急いでレジに戻ると、そこには堀込さんが立っていました。佳世がストックしていたポリ袋の棒を、佳世の二倍くらいのスピードで作っています。

「おぉ、おかえりなさい!」
「えっ、堀込さん、メガネは……」

手を止めて顔を上げた堀込さんに、佳世は目を丸くしてしまいました。いつもの黒縁メガネがないのです。

「あっ、気付くの早い!この前大渕さんに『見えてない』って言われたじゃないですか。確かに僕のメガネしょっちゅう曇るもんな〜と思って、コンタクトにしました。すごい快適で、おかげさまでよく見えるようになりました」

「ふふ」

意味が少し違うんだけどなぁと思い、佳世は俯きながら肩を小さく揺らしてしまいました。黒縁メガネがないおかげで、堀込さんの目尻から伸びるしわがよく見えて、照れくさくてたまりません。

「えっ、ちょっと笑ってます?いやぁ、大渕さんの勇姿を見れてラッキーでした。大渕さん、本当にいい目をしてますね。あっ、視力が高いという意味ではないですよ。周りを見渡して、心配りができるという意味です。僕はなかなかできないから尊敬します。じゃあ、売り場に戻りますね〜」
「あっ、あのっ、堀込さん」

佳世の慌てた声に堀込さんが振り返り、「なんでしょう」と言いたげに目を細めます。
佳世は胸に手をあて、すうっと息を吸い込んでから堀込さんの目をまっすぐ見ました。心臓が早鐘を打っていますが、不思議と手足は震えていません。

「あの、今度ラザニアを食べに行きませんか」
「……ラザニア?」
「春キャベツとトマトのラザニアなんです」

堀込さんは一瞬きょとんとしましたが、ますます目を細め、しわをたくさんつくりました。黒縁メガネをかけていたら、間違いなく曇っていたはずです。

「もちろんですよ!春の野菜、いいですねぇ」
「旬の味、です」

堀込さんに負けないくらい目を細め、マスクの下に隠れた口もキュッと上げ、佳世は彼に心から笑いかけました。


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