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源氏物語にみる描写の妙

 いきなり申し訳ないが、源氏物語については『あさきゆめみし』を読んでいる最中で、他には紫式部のことを紹介した漫画しか読んでない不勉強な段階である。つまり、原文及び現代語訳にはまだ辿り着いてないのである。なので、細かな誤りがあるかも知れない。そこを踏まえて、いち物書きが感じた紫式部の妙技を書かせて頂くことをご了承頂ければ幸いである。

 さて、本題。ここでは第十帖「賢木の巻」のあらすじから、その妙技を紐解いていきたい。

 主人公の光源氏は、叶わない初恋を拭い去れずに、様々な女性に心の空白を埋めてもらうことを求めていく。そこで出逢ったのが、六条御息所という、いわば年上の才色兼備の女性である。2人は恋に落ち、るまではいいが、源氏の初恋の穴を埋めるまではいかなかった。これは六条御息所のせいではない。
 しかし、ここで重要なのが六条御息所の心である。プライドが高く、そうやすやすと恋に呑まれないと思っていた彼女は、いつの間にか源氏の虜になってしまった。燃え盛る恋心に自身ですら狼狽し、認めることへの葛藤も生じている。
 そんななか、源氏の正妻との車の場所取りからプライドを傷つけられる思いをしてしまう。そもそも、正妻への嫉妬と羨望があるなかである。とてもじゃないが、六条御息所の心は大いに崩れる。
 そして、本人も気づかぬままに自らの生霊を生んでしまう。生霊は正妻に取り憑き、呪い殺してしまう。そして、その話を聞いて、鋭い六条御息所は、自らが生霊を出していたのではないか、と察知する。
 ここで六条御息所は一大決心をする。
 当時、天皇家の未婚の皇女が、三年間野宮で精進潔斎をして、伊勢神宮で天照大神の使いになる斎宮という制度があった。
 これに六条御息所の娘が選ばれる。そして、史実でもほぼ類を見ない、母親として同伴するという決心をする。
 これには、源氏と物理的に距離を置いて、源氏のことを忘れようとする彼女の強く苦しい決心があった。
 さて、そこでその話を聞きつけた源氏。時折彼女のことを想ってはなんとかできないだろうか、と考えていた彼は、一目逢おうと野宮へ向かう。
 しかし、決心を固めた六条御息所は、御簾を降ろしたまま、顔を見せようとしない。お互い辛い心の中、源氏はある行いをする。
 榊の葉というものがある。神棚に飾られるあれだ。榊の葉は常緑樹、つまり葉の色が変わることがない。
 それを御簾の下からすっと差し入れ、
「この榊の葉のように、常に色褪せることなく、貴女のことをお慕いしております」
と、伝えたのだ。
 それにより、六条御息所の心は、ようやく安らぐという話である。

 何とも情緒的な話ではなかろうか。男女の恋愛、年齢や立場も踏まえて、六条御息所の心の動きは男の私でも非常に納得する。更に言えば、六条御息所はそれ以降、光源氏とはプラトニックを貫く。何ともカッコいい女性である。

 源氏物語には、このように様々な女性が現れ、様々な想いが描かれている。
 ある解説で読んで納得したのだが、紫式部は光源氏を通して、様々な女性の心理を描いたという説である。なるほど、あくまで光源氏は鏡の役割だったわけだ。
 光源氏には具体的な外見描写がないとされている。「たとえようのない美しさ」などはあるが、例えば二重であるとかはない。一方、女性たちは具体的に描写されている。末摘花などその最たる例だろう。これは、読者が光源氏に自らのイメージを投影しやすいようにしているという説もあり、その読者への気配りには舌を巻く。

 余談ではあるが、ノーベル賞作家のカミュ『異邦人』も、似たようなテクニックを使っている。主人公のムルソーの一人称であるが、ムルソー自身がどのような人かはいまいちわからないようにされている。黒人男性で若めであるくらいで、ムルソー自体が何をどう捉えているかの本質は、ラストの怒りの独白まで取っておかれてある。それまで、あいまいな日々のように、彼の周りの出来事は電車が通過しているかのように流れているようだ。

 千年前に描かれた大長編小説なので、読むのは時間がかかるが、堅苦しく捉えず、男なら女性心理の勉強にもなるし、女性ならわかるわかる!と共感しやすい、実に面白いエンターテイメントなのが源氏物語だったのだ、そう気づいて筆を走らせずにはいられなかった。
 個人的には、じっくり田辺聖子さんの訳にも挑戦して、紫式部の描写や世界観にどっぷり浸かりたいと思っている。原稿用紙換算2500枚らしいので、本当に、じっくりとなりそうだけれど。

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