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小説『Here and Now』試し読みその3

※この小説には暴力的な描写がごさいます。そういうものが苦手な方は、お手数ですがブラウザバックをお願いいたします。

 ――で、今日はどうする? 孝雄は考えた。靴屋のバイトは九時からだ。そこから八時間働いて、帰るのは六時過ぎ。ケーキでも買うか。独りでお祝いして、適当にマスかいて寝るだけなんだろうな。

 俺がこんな底辺の人生を歩んでいるのは、過去のせいだ、と孝雄はいつも強迫的に考えていた――あんな目に遭わなければ、こうして必要以上に怯えながら生きる必要もなかっただろうし、場合によっては結婚して、子どもを溺愛し ているかもしれない。けれど、俺は第二次性徴の時期をことごとく邪魔され・踏みにじられ・潰されてしまったんだ。普通に生きることができていたならば、俺だってなにかやれたはずだ。

  人生なんてものに、希望を抱いたこともなかっ た――あったんだろうか? 子どものころの夢は、警察官だった。正義感があったのかな。それとも、その頃はまだ強さに希望を抱いていたのかな。

  強さがほしかった。だから、強くなるための本をむさぼり読んだ時期もあった。自律訓練法から、気まで。胡散臭い本も結構読んだ。いろいろ試してみて、いまだに継続しているのは、自律訓練法と、ゆる体操だった。けれども、毎日ビクビクしている孝雄は、精神的に硬かった。

  力を抜ける瞬間はいつだろう? 寝るときすら、薄っぺらい壁と窓とドアのせいで、落ち着かない。時々、自分の指が震えているのが分かるときがある。若い女の精神科医は、困ったわね、というような顔をしているように見えて仕方がない。

  雨が降っていることが、音でわかった。防音カーテンといっても、その程度なのだ。まったく、誰も助けてくれやしない。

  二十四年生きてわかったことは、男は顔じゃないということだった。自分の顔はそれほど悪くないと孝雄は思っていた。美容院に行けばもっとよくなるかもしれないといつも思うのだが、話しかけられることが苦痛で仕方がないため、安く時間の短い散髪屋にいつも通っていた。部屋が清潔なのだから、身なりも整っ ているはずだ。しかし女に馬鹿にされっぱなしだった。コンビニでバイトをしていた時、大学生の後輩の女に、「高島さんって、暗いですよね」と言われ、恥ずかしさと怒りで耳が赤くなり、それに気づいて更に耳が熱を持ち、しどろもどろに、「そうかな?」と言ったら、「童貞でしょ」と鼻から言われたことを未だに思い出す。恥ずかしくなって、そのバイトは辞めた。

  ――結局、精神なのだ。精神がしっかりしているのが、男の要件なのだ。けれど、ど うやってそれを手に入れればいいんだ? 虐められっこだった自分に・自分を出すことについてことごとく根っこを抜かれた自分に、いつ強い精神を形成する時間があったんだ?

 隣の部屋から女の喘ぎ声が聞こえた。隣にはガラの悪い土 方が住んでいる。そして、ガラの悪い金髪の女がしょっちゅう抱かれている。抱く前はやたらと大音量でバラエティ番組を見て、げらげらと品のない嗤い声をあげる。もう孝雄は壁を蹴らない。大人しくしている。自分が存在しないように気配を消している。それなのに、廊下ですれ違った時に、金髪の女が「うわっ、キモっ」と言った――俺にどうしろと言うんだ? 俺が死んだ方がいいのか? これだけ大人しくしているのに、これ以上俺は どれほど自分を消したらいいんだ?

  思えば、俺はずっと自分を消すように生きてきた、と、孝雄はペットボトル片手に座卓のそばに座り、キャスターを取り出して火をつけて考えた。甘い香りが好きだった。小児的な煙草だとは思っていない。ぬるく菓子のような味のする煙を勢いよく吐き出して、せわしなく口につけた。

 俺は、と孝雄は考える――傷つけられすぎて、痛めつけられすぎてきたから、そろそろ俺が逆の立場に立ってもいいのではないか。

その4に続きます


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