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小説『Here and Now』試し読みその4

※この小説には暴力的な描写がごさいます。そういうものが苦手な方は、お手数ですがブラウザバックをお願いいたします。

 

 過去を振り返ることは嫌でたまらなかったが、深夜の雨音は孝雄をいっそう内向させた。現実にあった悪夢を見たことも作用していた。

 もし、俺にあの学生時代がなければ、と孝雄は仮定した。もしあんなことがなけ れば、俺にだって青春といえるものがあったはずだし、自分を消すことを常に考えるハメにはならなかっただろうし、人を平気で殴れたんじゃないだろうか? 今から隣の部屋にベランダ越しにバット片手に乗り込んで、土方の頭蓋をことごとく砕き、赤い血と紫の変色と歪になったパーツに変え、エネルギーを沸騰させて、それをガラの悪い女の身体にぶつけ切って、歯を全部引っこ抜いて喉を使い、衣服を破いて獣のような声をあげさせながら突きまくり、事が終われば殺す。そんなことをしたらどこにも戻れなくなることはわかっているが、一体どこに戻りたくなるような場所があるっていうんだ?

  ――やっちまおうか。

  しかし孝雄にはそれらの妄想を実行する〝勇気〟がなかった――勇気と言えないとはわかっているが、孝雄にとって適切な表現は、〝勇気〟だった――失うものがないはずなのに、今より下に行くことが怖い。警察や世間が怖い。社会が怖くてたまらない。それら全ては人に直結する。孝雄は人が怖くてたまらない。孝雄は全般性不安障害と診断されている。

  煙草はすでに三本目になっていた。孝雄はチェーンスモーカーであった。一度火をつけると止まらなかった。それは、孝雄 の思考法にも当てはまった。孝雄の頭のなかでは、思考殺人が始まっていた。

  なかでも孝雄にとって痛快で、同時に苦々しさを覚えるものが、先ほど見た夢のやり直しだった。ロッカーの中で、孝雄はナイフを握っている。ロッカーの振 動などものともせず、じっと待っている。あまりに静かなので、奴らは訝る。ロッカーから怯えが感じ取れないので、奴らの嬌声が空しく響く。

「おい、聞いてんのか、高島!」

  非常に滑稽な上ずり声。ロッカーの中で孝雄は嗤いをこらえる。さあさ、早く始めよう、と、ナイフの握り具合を楽しむ。

「開けちまおうぜ、なんか変だよ」「死んでんじゃな~い?」「はは、傑作。死んでんのか、高島ぁ」

  好き放題言えばいい。お前らは、最期にこんな下らないことをして、人生を終えるんだ。お前らなんか、ただのゴミ屑だ。 

 閉めた時と同じように、硬貨によって開けられる。 

 そして、 

「おい、こいつチビってるぜ!」

「違う!」とつい孝雄は現実に戻って叫ぶ。 壁が蹴られる。

 孝雄はびくつき、煙草を灰皿に置いて水を飲み、壁に中指を立てて 、「殺すぞ」とつぶやく。

 ――違うんだ、そんなんじゃない! 俺はチビっていない、俺はもう、そんなんじゃないんだ! 


 孝雄はあまりに反射的にこびりついた出来事を恨めしく感じ、リセットする。深く深呼吸をし、眼は鋭いまま、頭でそいつの音声を改変する。「なーに黙ってんだよ」と。

  そいつ――長嶋という名だ――の喉をスカッと一閃。血が飛ぶ。そうそう、それだ。腹にとどめの一突き。長嶋の身体を押しやって、まず男連中の機能を停 止させる。眼を潰し、喉を切り、睾丸を潰す。残るは女たち。ブスには興味ないからあっさり殺す。最後に残った――香田、お前だよ、お前は自分が一番美人だと思い込んでいるくせに、こんな下らないことを楽しむ下種な 女なんだよ、だからさ、まずお前のアキレス腱を切ってやるよ。痛いか? 動けないか? そうだろ? 「なにすんだよクソが!」だって? 決まってるだろ? 男と女だよ、することは一つしかないじゃないか。「誰があ んたなんか――」うるせえよ。お前は抵抗できないんだよ。ほら、腕の神経切った。左も念のため。はは、こうなりゃ達磨だな。その生意気な口を使うのは死姦のときでもいいかな、とりあえずその淫乱なガバマンで我慢してやるよ。ほら、もっと騒げよ――。

  いつの間にか孝雄はズボンを脱いで、硬くなったそれをしごき始めた。眼を見開き、香田を凌辱している妄想で一杯になっていた。そして、それが終わったとき、自分がいかに情けないかということ が、生理的・身体的・精神的な実感として身体にのしかかってきて、いっそう自虐的になり、死んだ方がいい、と強く思わせた。 

 ――俺は何をやっているんだ。


  孝雄は冷却された精神で、自分を俯瞰していた。変わりたい、そう強く思った。今のままじゃ駄目だ、と――しかし、俺はどう変わればいい? 女を抱けば変わると言うが、本当だろうか?

  孝雄は童貞を恥じる部類の童貞であった。女が怖かった。早漏を嘲られるのではと考えたり、ぎこち ない愛撫に嘆息されることを考えてしまっていた。恥じる童貞にとって二十四歳はやり直しがきかない年齢だと思えてならなかった。子孫や将来ビジョンを考えての貞操ではなかったため、つまり二者関係でしか性交をとら えていなかったため、余裕がなかった。そして、そのため絶えず性交が女を見る前提だった。

  ダウンの思考法は一層負のスパイラルへと落ち込んだ――今、女をなんとしてでも抱ければ、俺は精神的にタフになり、過剰な怯えをなくすこ とができるかもしれない。けれど誰がいる? コンビニバイトでの童貞を見破った女を思い出す。犯してやろうか、でも勇気がない。なおさら馬鹿にされる。風俗に行く勇気もない。

  自分が変化することを恐れている自分があった。このままが楽だとも思う。しかし、現実は厳しい。精神は常にビクついている。余裕がない。女が欲しい。自分をすべて抱きしめて、「いいのよ、そのままで」と言ってくれる女がいれば――そんな都合のいい女はいるはずなかった。

  今を変えるという方略は女を抱くことしか思いつかなかった。貧困な視野にうんざりするほどの幅広い思考を持てなくなるほど、孝雄は自己成長をすませていなかった。落ち込み・妬み・苦しみ・閉じこもり――そうやって生き続 け、その結果が今の孝雄だった。

「下らない。全てが下らない」

  そう呟くことで自分を納得させる位置に置いて、布団にもぐりこんで寝た。

 夢は、見なかった。


【試し読みは以上です。もし、ご興味が湧きましたら、リンク先をご確認いただけますと幸いです】




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