「空港」~百人一首小説~

あらすじ:百人一首の中の六首から想像して一つの作品に仕上げました。一首につき一つの話が、最後に空港を舞台に交差していくオムニバスな作品です。百人一首を現代的に解釈してみると、今の生活にもピッタリ当てはまります。百人一首の勉強にもお勧めです!

   一 安部仲麻呂  
 
 今月はもう3回目。ミラノから始まり、べネチア、ベローナ、フィレンツェ、ようやく明日は最終のローマに到着。と思ったら、フリータイムで盗難にあったと泣きながら電話してくるおばさんグループ。ばーか。そんなの知るかよ。パスポートさえあれば帰れるんだよ。と言うのは胸にしまって、とにかくその場にいて下さいと愛想良く返答。さあ、まず現地ガイドのピエールに報告してホテルから警察に通報してもらって・・。
 他の人が帰ってくるまであと1時間。段取り良くしないと間に合わない。
 大丈夫。私は今まで盗難にあったお客さんの荷物は日本に帰ってからでも、全て取り戻してきた。あんた、運いいよ。西村さん。
 西村さんというのは、さっき電話してきたおばさん。なんでも近所の奥様方6人と旦那ほったらかして参加したらしい。最近の50過ぎたおばさんは、高校生よりぎゃーぎゃーうるさいわりに小学生より注意力に欠けるとこがあるから困る。
 フリータイムを終え、ぞくぞくと集合場所に帰ってくるツアー客の中で、ションボリしている西村さん、他5名。昨日までの威勢のよさはどこへやら。無理もない。パスポートとカードはかろうじて助かったものの、大金をはたいて買ったというお土産と現金が盗まれてしまった。
 他のグループの人もあーやっぱりあの人たち・・・という少々冷ややかな視線の中、私ももっと注意を促せばよかったという後悔と日本に戻ったら会社に報告しなければいけない煩わしさとが入り混じる。
 すでになす術もなく今日の夕食へご案内。今晩はオープンテラス席でサラダ、魚のメインディッシュにパスタ、デザートというメニュー。心地よい風が吹く中、ほかの皆さんは食事を楽しまれているけれど、私はおば様方と同じテーブルで意気消沈気味。そこに、ピエールがニコニコしながらやってきた。
「マダム、これはあなたのですか。」
 わぁーという歓声の中、ブランド物の紙袋をピエールから受け取った西村さんは、ほっとしたような、心配かけて申し訳なさそうな顔でピエールに一言。グラッチェ・・。
 
 ピエールによると犯人は現金にしか興味はなく、紙袋は小さな路地に放置していったらしい。そこへ巡回中の警官が通りがかり、中を検めると紐のところに小さなネームカードが下げてあった。
 Kiyomi Nishimura ***HOTEL
 ほんと良かったね。西村さん。だけど何でも名札つけたからって戻ってくるわけじゃないよ。ましてやブランド物の紙袋ならね。ピエールの話を聞いて、こう言いたくなったが、もちろん言わなかった。
 デザートが出始めた時、西村さんが私の方を見て、控えめに言った。
「近藤さん、ご迷惑おかけしてすみません。ありがとうございました。明日のローマはおとなしくしています。何だか少し日本に帰りたくなりました。」
 そうして下さい、と皮肉っぽく言ったが続く言葉が見つからなかった。少しの沈黙の後、奥様の一人が、
「あ、満月。」
 と囁いた。とっさにテーブルにいた全員が空を見上げ満月を確かめた。美しい月だった。高い建物のないヨーロッパは空が広く、月ものびのびした感じだった。
 今度帰ったらこの月をテーマに詠みましょうよ。と誰かが提案した。この奥様方、実は俳句会のメンバーらしい。それを聞いて、近所の人の悪口を言い合ってるわけじゃないのだと少し安心した。
 ピエールが隣で、どうしてみんな上向いてるの?鳥のフンでも心配しているの?とゲラゲラ笑っている。もちろん英語だから奥様方には分からないだろうけど。
 奥様方は日本も今こんな満月なのかしらね、と話している。
 いや、日本はお日さまが出たばかりですから。心の中で突っ込んだ。

   天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 

 
   二 小野小町

「ねぇマミ、今日の撮影終わったら事務所に寄ってくれる?話があるの。」
 予想はしていた。私はもう30過ぎで今の雑誌の読者は20代半ばの設定。男ウケの良い服を着るのも限界だし、30女は主婦向けの雑誌に移行するのが慣わしだ。
「今の主婦はオシャレに気を抜かないから、出版社もマミみたいにいつまでも若くて綺麗な子を使いたいのよ。だから向こうの要望なの。栄転だと思って頑張ってね。」
 つまり今の雑誌は降板ですか?と聞いたらこう返ってきた。社長は栄転だと言うけれど、発行部数は明らかに違う。まだ仕事があるだけましだろうけど。
「コーヒーおかわりいかがですか?」
 お願いします。返事をしながら外を見ると雨が少し強くなっているのに気がついた。たった今隣に座った男の人の傘には桜の花びらが数枚へばりついている。その一枚が向かいの椅子の背に傘を掛けたはずみで、はらはらと床に落ちた。
 床から窓へ目を戻すと道路の向こう側に大きな桜の木があった。その横の歩道を水色のレインコートを着た女の人が大きなゴールデンレトリバーを散歩させながら横切った。さっぱりと整えられた肩にかかる髪は生き生きと風になびいて、自分よりかなり年上に見えるその人を少女のように可愛く見せた。けれど後姿は何とも颯爽としていて、むしろかっこよかった。それに比べ、自分の長すぎる髪は無駄のように思えた。
 
 そういえば、子犬と一緒に撮影したこともあった。あれはパリに撮影に行った時、まだ本当に小さな子犬を連れた素敵なおじ様がオープンテラスでお茶をしていて、スタッフが協力をお願いしたのだ。休憩中に仲良くなって、結局一日中撮影に付き合ってくれた。別れ際に、十年後パリに来たらもう一度会いましょう、と言ってくれた。どうして十年後かと聞いたら、
「君はまだ20代でしょ。女性は30歳を過ぎた頃からが良いからね。今よりもっと魅力的なあなたを見たいじゃないか。その頃私がまだ生きていればだけどね。」
 と笑わしてくれた。
 
 はぁ、少し休みをとってまた行ってみようかな。今の私ならデートしてくれるかもしれない。あのおじ様が元気だといいけれど。
 雨を眺めながら考えていると、突然隣の男の人が話しかけてきた。
「もしかしてマミか?」
 懐かしい顔はすぐに分かった。
「え?あっ伯父さん。偶然で驚いた。そういえばお家この近所よね。」
 今日はオフの日だから、朝から適当に電車を乗り継いで知らない町を散歩したくなった。このあたりは静かな住宅街で、所々に小さなカフェがあって散歩するには良いコースだ。そんなことを説明した。伯父さんは無口だが人嫌いというのではなく、落ち着いた深みのある雰囲気で昔から結構好きだった。反対に伯母さんはにぎやかな人だけれど。
「それで叔母さんは元気にしてる?」
 すると伯父さんは少し嫌な顔をして、
「あいつは先週からイタリア旅行に行ってる。奥様連中と。」
 と嘆くように言った。
「じゃあ、伯父さんしばらく寂しいね。」
 そう聞くと、寂しくはないなと答えながら、
「むしろ楽でいいよ。こうして昼間から本も読めるしな。」
 と続けた。相変わらず伯父さんは出不精だね、とからかうと伯父さんは少し笑った。

「仕事は順調か?いつもあいつが近所で自慢してるよ、マミのこと。」
 少し間があった後、思い出したように伯父さんが聞いてきた。
「まあまあだね。最近は今日みたいに休みも多いけど。」
「そうか・・。」
 伯父さんは何も聞かなかった。そして再び本を読み始めた。私も再び雨を眺めた。
 しとしとと、雨はやむ気配がなかった。
「私も旅行でも行こうかな。」
 独り言のようにつぶやいただけだったが、伯父さんが
「ああ、気分が変わるぞ。」
 と丁寧に答えてくれた。

 花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

   
   三 紀貫之

「とてもお綺麗ですけど女優さんですか?」
 あ、日本も変わったものだな。
 雄一は空港のロビーで航空会社の社員らしき若い男が、フランス語でこう言っているのを耳にした。結構な発音だったので、思わず振り返ってTAKITAという名札を見るまでは日本人だと分からなかった。声をかけられている白人女性の容姿は悪くはないが、まあ普通といったところが気に入った。この男俺の若い頃みたいだ、と少し苦笑いしてしまった。
 帰りの航空チケットを予約しないで日本に滞在するのはもう何年ぶりだろう。玲子と離婚して20年近く経つからそれ以来か。ようやく退職できたし、しばらくは日本にいてもいいなとナンパ男を微かに見ながら考えた。
 
 久々の日本はあいにくの雨である。
 懐かしいかつての我が家はほとんど変わっていなかった。庭の桜の木がちょうど2階の窓まで届き20年分成長していたが、相変わらず見事な咲き様だ。その枝の影に隠れている近藤という表札だけが雄一には見慣れないものだった。 
「あれ雄一さん?」
 インターホンを鳴らす前に後ろから声をかけられた。   
 犬の散歩帰りの玲子は、カッパ姿だが相変わらず美しい。淡い水色が玲子の肌とよく似合っている。玲子に会うのは20年ぶりではないけれど。
「お早いお着きね。理沙の結婚式は来月ですよ。言ってくれればお待ちしてたのに。」
 驚く様子もなく玲子は当然のように言った。
「理沙が相手と早く会ってほしいと言うし、もう向こうにいる理由もないからな。」
 俯き加減で雄一が答えると、玲子が簡単に答えた。
「そうね。退職おめでとうございます。お疲れ様でした。」
 ああ、とだけ返事をした雄一に玲子はとにかく中へ入りましょうと促した。
 雄一は遠慮気味についていき、玲子の後ろ髪に白いものを見つけてはっとした。自分より十も年下の玲子はいつまでも若いと信じていたが、お互い娘が結婚する歳なのだからと納得した。
 そんな玲子を見ていると、長い間家族を、いや特に妻をほったらかして、仕事や女遊びを好き放題してきたんだなぁ、としみじみ感じた。もっとも、玲子はそれが嫌になって、もうずいぶん前に妻ではなくなったのだが。
 家に入り、玲子は髪をまとめた。ポニーテールの彼女はやはり若々しく可愛らしかった。雄一に対しても昔のままに慣れた手つきでお茶を出してくれた。そのときふわっと懐かしい香りが漂った。
「君まだ好きなんだね。5番。シャネルの。」
 雄一は嬉しくなって聞いた。すると玲子は パタパタと台所に戻って、恥ずかしそうにぽつりと言った。
「あなたがくれたものの一番は理沙で、次はこれね。」
「まだ残っているのか?」
 雄一が驚いて聞くと、
「いやね、もうとっくに無くなったわよ。あれからは自分で買ってます。」
 呆れ顔で玲子は答えた。
「次無くなったら言いなさい。買ってあげるから。」
 雄一はテーブルの上の新聞を広げながら、小さな声で言った。
 返事はなかった。
 しばらくして台所から出てきた玲子は、理沙の話をした。婚約者のことや2人のなれそめを長々と話した。最後に突然、日本での宿を見つけたかと聞いた。まだだと言うと、
「2階のあなたの書斎に泊まったら?ソファとベットを入れ替えるわ。あさって、理沙も仕事から帰ってくるし。」
 と空になったカップにお茶を足しながら言った。
「・・・いいのか?」
 また返事はなかった。
 少ししてから玲子が口を開いた。
「イタリアで理沙にワインでも買ってきてもらいましょうよ。あなたの退職祝いに。」
 玲子の少しシワの増えた目と雄一のホリが深くなった目とが一瞬交差した。
「そうだな。」
 20年ぶりの夫婦の会話だった。

 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞむかしの 香ににほいける


 

   四 喜撰法師

雨が強くなってきた。
 黒い傘に雨粒と混じって桜の花びらがピシャリとくっついている。傘を少し傾けて空を見ると空より先に桜の大木が目に入った。 
 遠くのほうで、薄い水色のレインコートを着た女性が犬の散歩をしているが、あとは人気がなくしんとしている。
この静けさが好きだ。
このあたりに家を買うと言ったとき妻はもう少し街中でも便利だしいいんじゃないかと主張したが、これだけは私は譲らなかった。街中などとんでもない。定年後は少し大きな家で静かに本を読んだり、音楽を聴いたりして、そのうちに体が弱って静かに死んでいくことを楽しみに、人生の後半は頑張ってきた。子供がいないこともあって、家は難なく手に入ったし、旅行好きな妻を遊ばせてやる余裕だってある。去年、長年勤めた会社を定年退職した後は、誰にも迷惑をかけず、静かに、そして、豊かに暮らしている。だが、人は私のことを陰気やら気難しいやらと、棘のある言い方をする。別に気にはならないが、不思議なのは、私が毎日飽きずに何気ないことをして過ごしていることを楽しんでいる、とは思っていないことだ。特に妻は、あなたも何か外に出て趣味でもみつけたら、と度々言ってくるし、私が出不精だと近所や親戚の間で言いふらしている。

 私は何も寂しく家にこもっているわけではない。毎日同じことをしているようにみえても、本のページが変われば読む本だって違ってくるし、音楽だっていつも同じものを聞くわけではない。散歩に出れば季節も変わる。同じ毎日なんて一日もない。そんな毎日のちょっとしたことを私はちゃんと楽しんでいるのだ。
 
 今日はそんな日々の中でマミに会った。マミは本当に自分の親類なのかと疑ってしまうくらい、華やかな世界で活躍している。子供のいない私には娘のような存在であるが、それをマミが分かっているのかは知らない。
 ただ今日久しぶりに会ったマミは少し疲れている様子だった。相変わらず綺麗な子だけれど、以前のように若さゆえの天真爛漫な雰囲気はなかった。それがいっそう魅力的ではあったが。

 天真爛漫といえば、妻はいくつになっても天真爛漫で怖いもの知らずな性格である。何故だか、年を重ねるごとにいっそうその傾向が強くなっていくようだ。私がこんな静かな性格だから一層そうなったのか、もともとの生まれ持ったものなのか。どちらにしろ、妻と私は正反対なのだ。

 けれど結婚当初は違った。そもそも俳句会で出会った私たちには俳句という楽しみは共有していた。詠む歌の感じは違っても、自分には思いつかないような17文字をお互いに評価し、相手の世界を感じ合った。だが、最近は妻がどんな歌を詠んでいるかも知らない。
私も、年とともに隠居じみた歌しか詠めないのに嫌気がさして、もっぱら読書に務めている。妻のほうは近所の文化センターで俳句会に通ってはいるものの、俳句会なのか旅行サークルなのか定かではない。
 その妻があさってには帰ってくる。また掃除機の音で目が覚める日常である。
 
 突然電話が鳴った。妻だった。
「もしもし?私ですけどあさっての昼には空港に着きますから。」
 冷蔵庫に目立つように日程表を貼っているのだから分かっていたが、そうか、とだけ返事をした。妻が続けた。
「こっちでね、素晴らしい満月を見たんですよ。今度これをテーマに詠もうっていうことになって。あなたも久々に詠んでみたら?」
 妻の声はいつもの刺々しさが抜けて少し優しい、というか寂しそうに聞こえた。
「何かあったか?」
 鼻をすするような息を吸うような音が聞こえた後、妻が静かに言った。
「ちょっとね、日本が恋しくなっただけですよ。もう桜も満開だろうし、散歩したり、本を読んだり・・帰ったらしばらくゆっくりしたいなと思って。あなたみたいに。」
 私は再び、そうか、としか答えなかった。それ以外言う言葉が見つからなかった。
 沈黙が気まずくなって続けた。
「何時到着なんだ?飛行機。迎えにいくよ。」
「え?日本時間で午後の3時ですけど。」
 妻は私の申し出を意外そうな声で答えた。私自身、面倒くさいことを言ったものだと我ながら思ったが、少し遠い散歩だと思えばいい。最後に気をつけてな、と言って電話を切った。
 たった1分ほどの電話だった。

 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいうなり

   五 僧正遍昭

 なんだよ。そんなに不機嫌な顔しなくたって。別に僕だって本気で女優なんて思ってないよ。フランス語の観光案内を持ってた女に得意のフランス語でちょっとサービスしようと思っただけだ。

 航空会社に入社して華やかな世界に入れると思ったのもつかの間、案内係のような仕事しかさせてもらえない。おまけに綺麗な女がたくさんいると思ったのに、CAとは話す機会もあまりないし、地上勤務の子も気位が高すぎて同僚なんて相手にしないらしい。自分で言うのもなんだけど、僕はわりにハンサムだ。けれど彼女たち、結婚相手としてしか男を見ないらしい。僕はまだ24だし、結婚するにはまだ若いのか。
 あーどっかに凛としたかっこいい女はいないかな。髪の毛をくるくると巻いていない女。だけど、同僚たちのように一糸乱れぬように髪を束ねてもいない女。年下の子を可愛がるのもいいけれど、女子大生なんてもう飽きたし、そろそろ年上の女性と付き合ってみたい。まわりにいる年上女は、いかに玉の輿にのるかを考えているような図々しい女ばかりで全く趣味じゃないが。

 と、そろそろ休憩の時間だ。と言ってもこの格好で休憩していても、出発ゲートやチェックイン場所はどこかなどと、やたら聞かれて休憩にならない。だからって会社の休憩室はもっと嫌だから仕方ない。
「あの、パリ行きの便の手続きはこちらでよろしいですか?」
 ほらきた。パリ行きはまだ受付してないっつーの。早く着きすぎじゃん。と思って振り返ると、うわっいい女。ショートカットの髪が余計女らしく、ラフな格好がこなれててかっこいい。不機嫌な顔をとっさに直し、営業スマイルで答えた。
「パリ行きの受付はこちらですが、申し訳ありませんが、あと1時間ほど先の受付となります。」
 そうですか、早く来すぎちゃったな。と独り言のように言う彼女。よく見ると案外、年上みたいだが、幼い雰囲気もあって、さらに惹かれる。
「よろしければこちらのラウンジでお待ち下さい。」
 案内しながら、もし話し相手がいるようならお相手しますよというと、彼女驚いた様子でこちらを見た。しまった、軽すぎたか。と焦ったが、すぐに笑顔で、今から休憩なんでと切り替えした。ああ、と納得した表情が安心した子供っぽい笑顔で可愛い。
「もしかして、女優さんかモデルさんですか?」
 いつものお決まりを言ってみた。すると、なんと本当にモデルだった。髪をバッサリ切ったばかりなのに、よく分かりましたね。と彼女は意外そうに言った。短いほうが素敵です。と答えると、少し赤くなった。ごめんなさい、長い髪のあなたは知りませんが、と密かに謝った。
 そんな感じで僕らは自然に並んで話をした。
彼女は自分探しの旅にしばらく行くのだと話してから、自分探しなんて大げさなものじゃないですけど、と後から否定した。きっと良い気分転換になりますよ、と言うと他の人にもそう言われましたと笑った。
 
 僕は恋に落ちたようだった。彼女を見送った後、どんなにいい女に出会っても声をかける気分にはならないだろう。週末の合コンも行くのが面倒に思えた。
 
 ラウンジの横の大きな液晶テレビから、国内線の運行情報が放送されている。今朝から一部の地域で濃霧が発生していて、出発着が少しずつ遅れているらしい。国際線にはほとんど影響はないけれど。
 その放送を彼女が心配そうに見ていた。そして、大丈夫かなと呟いた。国際線はきっと大丈夫ですよ。もう少ししたら荷物も預けられますからと答えながら、いっそ遅れればいいのに、と航空会社の社員としては不謹慎なことを考えた。
 最後にいつ帰ってくるのかをさりげなく聞いた。分からないと言われたが、代わりに名前を教えてくれた。
 彼女、安井マミさんといった。


  天つ風 雲の通い路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ

   
   六 蝉丸
 
 「あなた起きてください。」
 雄一はおよそ20年ぶりに妻に起こされた。起きたとき俺は幸せ者だとつくづく感じた。 
 
同じ頃、散歩から帰った安井芳郎は久しぶりに車の具合を確かめた。しばらく乗っていないからエンジンを温めておかないと、と思い早めにガレージに立った。案外すんなりと車は動いた。ふと横を見ると助手席の横のポケットに探していた本を見つけた。ここにあったのか。久しぶりの再会だった。
 
また同じ頃、飛行機の中をぐるぐると回り、ツアー客にアンケートを配る近藤理紗がいた。
「安井さん、お疲れ様でした。ここに旅のアンケートが入っていますので私に直接渡して頂くか、後日郵送にて送って頂いても結構ですのでご協力お願いします。」
 理紗がテキパキと言うと、安井さんは申し訳なさそうにお礼を言った。
「近藤さん、本当にいろいろお世話になりました。しばらくは日本で主人とのんびり過ごします。」
 そうですか、と返事をした自分の声がとても優しいことに理紗自身驚いた。出発日に点呼した時から、この人はおばさんグループの中でも特に苦手だと思っていたのに。旅を通してお客さんを好きになったのは初めてだったので、恥ずかしいような、何だか嬉しい気分だった。

「行っちゃった。」
 地上では滝田正樹が出発ゲートの前で立ちすくんでいた。ラウンジから見えなくなるまで安井マミの後姿を見送った。そろそろ仕事に戻らなくてはいけないが、頭がぽーとして足が動かない。こんな感覚は初めてだった。彼女の名前は聞いたものの、自分の名前を言うのをすっかり忘れていた。もう彼女は行ってしまったのに。
 ようやく仕事場に戻ろうと、会社の窓口に帰ろうとした時、春だと言うのに渋い色のコートをきた、堅実そうな男に声をかけられた。
「すみません、到着ゲートはどちらですか?」
 到着ゲートは1階ですよ、と簡単に答えたら、続けて聞かれた。
「ローマからのこの便は到着してますか?妻を迎えに着たんですけどね、少し早く着いてしまって。」
 それなら、下の電光掲示板で表示されていますよ、と彼にしては丁寧に答えてやった。相手は男なのに。それにしても、定年過ぎのおっさんみたいだが、よっぽど愛妻家なんだなと正樹は感心した。今までこんな男は格好悪くて嫌だったけれど、こういう男が結局良い夫というものなんだろうなと感じた。

 荷物検査も終わり、ようやく日本に帰ってきたのだと安井佳代子は肩をなでおろした。どうやら彼女が最後だったらしく、他の皆さんは隅のほうで集まって待っていた。
「すみません、荷物検査に手間かかちゃって。」
 そう言うと、家がご近所の井上さんと加藤さんが、
「安井さん、一緒にタクシーで帰りません?」
 と提案してきた。佳代子はバツが悪そうに答えた。
「私は・・主人が迎えに来てくれるので。」
 あら、いいわね。ご主人優しくて、と少し嫌味っぽく言われ、それなら、と2人はタクシー乗り場まで急いでいった。
 ぽつんと残された佳代子に向こうから男が近づいて言った。
「佳代子、帰るぞ。」
 何も言わずスーツケースを引く夫の後ろに妻は静かについていった。

「理沙はまだ出てこないのか?」
 イライラしながら雄一は到着ゲートを通る人々を確認していた。玲子が隣で、
「お客さんの荷物を確かめてからじゃないと出て来られないんですよ、きっと。」
 となだめた。到着からそろそろ2時間が経とうとしている時、ようやく理沙が姿を見せた。ゲートの向こうのベンチから、理紗の父と母が手を振っていた。
「え?何でいるの?」
 と思わず聞いた理沙に、父は良いワインは買ってきたか?とぶっきらぼうに聞いた。一応買ってきたよと答えると母が、
「じゃあ今日はお祝いね。」
 と言うから、何の?と聞くと、
「お父さんの退職祝い。それと・・・」
「私の結婚祝い?」
 理沙が照れながら聞くと、
「いや、俺と玲子の再婚祝いだ。お前より俺たちのほうがめでたいからな。」
 と父が口を挟んだ。
 雄一の横で玲子は満足そうな顔をしている。 父の言葉を理沙は精一杯の冷ややかな顔で否定した。今更、この人たちは…訳が分からない。呆れるしかなかった。
 けれど、久々に両親の並んだ背中を見ていると、自然に笑みがこぼれるのを理沙は隠しきれなかった。

  
 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関



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