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学校の先生が『なぜ、勉強するのか?』を教えてくれない理由


1.なぜ、人は勉強する必要があるのか?


もし、僕が学生に『なぜ、勉強なんてしなくちゃならないの?』と聞かれたら、問答無用でこう答えます。

『物事の関連性を探るため。』と。

ちょいと難しく言うと、演繹的思考をやるために勉強はするんだよ。と言ってあげます。

※演繹的思考については以下の記事を。


物事の本質を探り、まるで哲学者のように推論を重ねていく。

やはり、そのためには基礎五科目の知識が不可欠であり、人がもっとも理解すべきは、どんなにすごい人が書いたビジネス書でも、もっとも難解な哲学書でも、TEDのスピーカーが話していることに耳を傾けることでもないんです。

我々は、なぜ人が人生のもっとも最初に『教科書』に挑むのかを理解しなければならない。

教科書とは、いわばタネ本です。

いちばん最初の知識であり、すべての本の元になっている。

言ってしまえば、もっとも多くのひらめきが生まれている根源が教科書なのです。

だから、生徒に『勉強しろ!!』と言って急かしてはいけない。

まず、先生が得るべきものは『なんで、勉強なんてしなくちゃならないの?』と聞かれた時にすぐ返答できる能力なのです。

『物事の関連性を探るため。』と。

(もちろん、言い方はいろいろあると思いますけどね。)


2.先生は『教師』ではない。

「教師」は、主に学校で職業的にものを教える人。一方、 「先生」は、ものを教える人を一般的に指す。
http://nifongo.style.coocan.jp/016.htmより

そう、日本の学校の先生というのは、あくまでも生徒にものを教えるだけなのです。職業的良心に従ってものを教えている人は少ない。

だから、基礎五科の単語は教えてくれても、それをどうやって応用するか。それを使ってどのように理論形成、つまり生徒一人ひとりなりの方法論を作るのかは教えてはくれないのです。

政治家の先生でも、精神科の先生でも教えることができるしか教えていないのです。

だから、生徒は自分でこのことに気付かなくちゃならなくなってしまう。

ものをおしえても、きっかけを作ることはない。

それが先生です。

しかし、これは仕方ない感じもあるんですね。

資本主義は『職業的良心』みたいな人間本来のココロから生まれてくる概念を嫌います。

これは資本主義がすべてをお金で計算しようとするからですね。お金にならないものは嫌いなんです。資本主義ってヤツは。

もし、この記事を読んでいる方に先生をやっておられる方がいるのであれば、それは癪に触るでしょうが、先生とは、あくまでもお金をもらって教えている先生でしかない。

キルケゴールの言う『教師』ではないのです。

ただ、これをよくわかっている先生は『教師』足り得るんですけどね。



では今回は短いですけど、ここまで。
ありがとうございました。

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