トラスト・ミー: 目の前にあること、目の前にあるもの
ハル・ハートリーのトラスト・ミーを観た。
時々、こういう映画に出会う。始まった瞬間のワンカットから、あぁ、これは私の特別な映画になると分かる作品。
唇をどぎついピンクとブルーに塗りながら、「子供ができたの、5ドルちょうだい」と父親にのたまう少女。掠れたアイメイクに縁取られた、零れ落ちそうなほど大きな瞳。
私はワンカット目からこの映画を信じ、完全に身を委ねた。あたたかな毛布のなかで目覚めるような作品。ピュア。純真。真心。
純真であることは、こんなにも生きづらい。それをわかっていて、マシューとマリアは決して純真をあきらめない。
マリアのかけるめがねには一つの曇りもない。むしろ世界を、作為から守るために、純真でみつめるためにレンズをかける。
彼らはピュアで、人に騙される。曲げることのできない信念は、時として愚かなものと受け止められる。だけど私たちは、確かに彼らの純真を目撃している。だからこそ信じることができる。私たちの純真も、きっとだれかがみつめてくれていると。
トラスト・ミー。あらゆる作為から解放された、完全なる純真と信頼。そのエッセンスだけを搾って、たいせつにたいせつに小瓶に入れて、そしてそれをぶちまけるような。そんな映画。
LOVE
愛は人を愚かにする。
おもしろいことに、誰も愛さないと言っているマシューのほうこそ、最初から愛だらけの人間だ。彼は父親を愛してるように見える。だから嫌な仕事もやる。だけど彼は父親を全く信頼していない、だから歯向かわない。言いなりになる。信頼でぶつかっていくことは決してない。「傷つけたくない」という愛だけがある。
マリアを愛してるから、飛び降りることができない。
TRUST
信頼と称賛は愛に等しい。
何かにつけて愛、愛と口にするマリアは、愛にいっさい縛られる様子がない。父親や彼氏に事も無げに妊娠を告げる彼女からは、相手に対する完全な信頼を感じる。だけど愛らしきものが一切見えない。愛による相手への気遣いはそこにはない。「あなたは私を愛してるでしょう」という純粋な信頼だけがある。
マシューを信頼しているから、飛び降りることができる。
この作品は出だしから、TRUSTで溢れていた。
しかしふたりが出会い、混ざり合い、影響しあい、LOVEとTRUSTのバランスもまた変わっていく。LOVEが始まったかと思うと、TRUSTが迷子になる。
そしてすべてのTRUSTがからっぽになって、ふたりは手榴弾を破裂させた。
それは、完全なる純真と信頼のエッセンスをブチまける爆発。最後にふたりの間に残ったのは、向かい合うLOVEではなく、上下さかさまの、TRUST。
マリアはめがねをかけてマシューを見送る。もういちど、彼をTRUSTでみつめるために。
TRUST
愛を凌駕する、完全なる純真。
目の前にある世界を信じること、目の前にある人を信じること、純真で受けとめること。純真でむかっていくこと。
完全なる純真を、私はたしかに目撃した。
(2020年7月14日 / ユジク阿佐ヶ谷)
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