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『羅小黒戦記』:共存と共生の狭間で

ユジク阿佐ヶ谷にて、話題の『羅小黒戦記』をようやく鑑賞。ほのぼのアニメかと思いきや、民族共生について真面目に考えさせられた話について書きたい。がっつりネタバレなのでご注意を。

『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)』とは

2019年に中国で制作・公開されたアニメーション映画である。日本では2019年9月に上映開始。もともとは在日中国人をターゲットとしての日本公開だったが、クオリティの高さを絶賛する口コミで人気が広がり、現在も上映が続く超ロングランヒットとなっている。

あらすじ(ネタバレ有り)

物語は猫の妖精「羅小黒」(ロシャオヘイ)の住む森が、人間の操るブルドーザーに破壊されるシーンから始まる。谷底に落ちるシャオヘイ、目覚めるとそこは、街のゴミ箱の中だった。

街で人間に襲われるシャオヘイ。それを助けたのが同じく妖精の「風息」(フーシー)である。

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(画像出典:『羅小黒戦記』公式サイト

フーシーは新しい居場所と仲間をシャオヘイに与える。しかしその翌日、謎の人類「無限」(ムゲン)が新たな住処を襲う。

仲間とはぐれ、ムゲンに捕らえられたシャオヘイ。彼はシャオヘイを「館」(ヤカタ)と呼ばれる場所へと連行すると言う。

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(画像出典:『羅小黒戦記』公式サイト

「館」は妖精の運営する「家」のような場所で、妖精の持つ超能力の操り方や、人間社会への溶け込み方を学ぶことができるという。しかしシャオヘイは大切なフーシーを襲ったムゲンの言葉を信じず、何度も逃亡を試みる。そんなシャオヘイにムゲンは能力の扱い方を教える。

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(画像出典:『羅小黒戦記』公式サイト

「館」の位置する都市に到着した2人。そこには人間社会の中、笑顔で生きる妖精たちの姿があった。シャオヘイの心は揺れる。

そこにフーシーがシャオヘイを取り戻しに現れる。再会を喜ぶシャオヘイ。だがフーシーの真の目的は、シャオヘイの巨大な潜在能力を奪い取り、人間から住処を取り戻す為に利用することだった―――

「妖精と人間の共存」の罠

物語の最後、「人間から故郷を取り戻す」というフーシーの野望は阻止され、妖精(シャオヘイ)は人間(ムゲン)と共に生きることを選ぶ。

大団円である。私も泣いた。

だがこれで「人間と妖精は、人間社会で共存できている」と言ってよいのだろうか。妖精たちは「妖精であることを人間に知られてはならない」という掟さえ守れば、人間社会で幸せに暮らせるという。

アルバイトをし、スマートフォンを操り、一見何不自由なく生活する。だが、この「擬態」こそがこの物語に依然として残される問題ではないだろうか。

結局「他民族」はコソコソ生きるのか

フーシーは常に人間たちに怒っていた。彼のセリフで印象的なものがある。

「コソコソ生きろっていうのか?」

フーシーがムゲンの度重なる説得に応じない理由がこれだ。(元々は自分の故郷であったはずの土地で)妖精が人間社会に溶け込むよう努力し、コソコソ生きるのは納得できない。という理屈である。

結局この映画のラストでも、その点は解決していないのではないか。妖精の姿を見た人間の記憶は消され、妖精は依然として恐れられ、人間と同化し溶け込むようにして生きるのか?

私たちの社会ではどうだろうか。違うルーツの人は、違う考えを持つ人は、バレないように生きて、周囲と全く同じに見せかけないとダメなのか。溶け込む、というのは大切なことだが、それと同時に少し厄介だ。

「溶ける」とは、混じって同化するということだ。「違う」ということを無視し、受け入れない響きがある。

エンディングの時点では、人間社会において、妖精はまだ、妖精であることを受け入れられていないようだ。本当の共生は、「人間社会の中で、妖精が妖精として生きて」初めて実現するのではないだろうか。

共存と共生という言葉がある。似ているようで微妙に違う。前者はただ同じ空間に共に存在すること(この映画の場合は存在も知られてはならないわけだが)。後者は相互に作用しながら関わり合い、共に生きること。

ちょうどその狭間から、この物語の未来が始まるように感じた。

少女の 「謝謝你」 に見る希望

だけど希望はあった。フーシー達がシャオヘイを奪いに来る最中、電車の中で人間たちが戦闘に巻き込まれるシーンだ。

妖精の姿(名前は小黒だが大猫なのだ)を現にし、少女を瓦礫から庇うシャオヘイ。周囲の大人たちが怯える中、幼い少女だけが、去り際のシャオヘイを真っ直ぐに見つめて言う。

「謝謝你」(ありがとう。)

そうだ、妖精だって知られても、きっと大丈夫な未来がくる。

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(ユジク阿佐ヶ谷 / 2020年6月1日)

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