フェデリコ・フェリーニ 『道』

今日、フェデリコ・フェリーニの『道』を観た。

この映画は、私の母が、「この世で最も好きな映画」と、言っていた作品だった。
だから、観るのが楽しみでもあり、怖くもあった。

私の母は、まさにこの映画のジェルソミーナのような人だった。そして私の目から見た父は、ザンパノその人だった。これ以上、今は書くことはできない。

だから観るのは苦痛でもあった。あらゆる苦痛が蘇る。そして疑問。ジェルソミーナ、何故その男についていくの、何故逃げない、何故泣くのに逃げない、まさか愛しているのか。

自然と、両親の人生を想像していた。私の母という女性も、私の父という男性も、親である前に、ただの人間でしかない。

女は狂うが、そこに至るまでには彼女の選択があった。

吠えるしかできない犬に噛みつかれても、私がいないと彼はひとりになってしまうと。自分が役に立つのはこの男の隣だと、彼女自身が選択したのだ。

あぁ、母もあんなふうに、石ころに慰められる日があったのだろうか。なんと悲しく、そして救われることだろう。


天使は彼女に言った。一緒にこないかと。だけど彼女はあの道を選んだ。

私は天使ではない。死をもって人間を解放し、愛を教える存在にはなれない。そうはなりたくないから、私は父と母の前に姿を現さないと決めた。

それでも私の存在が、母の一時の慰めであったことを、今も祈ってやまない。あの夜空の下、2人が言葉を交わした時のように、天使が教えたあの旋律のように。私が生きたことが、彼女を勇気づける旋律になっていたならいいと、願ってやまない。


そして、男は天使を追放し、女は狂う。彼は女を棄てるが、何処かで再び遭うことを期待している。しかし、彼女は死んだ。あの旋律だけを遺して。

男は夜の海に向かう、あたりを見廻し、自分が完全にひとりになってしまったことに遂に気づき、砂浜で泣き崩れる。

私は彼を憎いとも、愚かだとも、哀れだとも感じなかった。ただ、これが、これが人間の姿なのだ。

そして私は決めた。いつか父が何かを後悔して泣いたとしても、その時、私は絶対に、一言の言葉も告げたりはしない。彼の感じるままに全てを感じさせる。

人生はただ続く道であり、辿り着いた時にはもう、裁くことはできない。人から与えられる罰に、何の力もない。

夜の砂浜で一人になったとしても、無力にも、その道程を振り返ることしかできないのだから。



お母さん、この映画の何処が好きでしたか。
訊きたいけれど、そんなことはもう言われなくても私にはわかっているし、答えには何の意味もない。

今は、もう、何も書く気になれない。


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