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日本語から日本語への翻訳(その4)鷽月さつか『キャッチャー・イン・ザ・ペイ(冒頭)』

なんと2日連続での更新だ!日本語から日本語への翻訳、第4弾はエディプスちゃんさんこと鷽月さつか『キャッチャー・イン・ザ・ペイ(冒頭)』です。

一応、日本語から日本語への翻訳シリーズはひとまずこれでおしまいだよ。ほんと楽しかったです。大変だったけど、文章のことをたくさん考えられた。手を挙げてくれた4人に感謝を……。

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で、この作品。実はエディプスちゃんさんの作品は前から気になっていて、ちょうど今回、彼(彼女?)が手を挙げてくれたからとても楽しみだった。

今回、預けてくれた文章はこちら。
キャッチャー・イン・ザ・ペイ(冒頭)

タイトルからも分かるように、翻訳体っぽい文章だ。ならこちらはどうしようかと考えて、この文章を一度頭のなかで英語にしてそれを日本語にすることにしてみた(そういえば村上春樹が昔、文章を考えるときにまず英語で考えて、それを日本語に訳しながら書いていくと話していたのを思い出した)。

じゃあさっそくだけど、以下が翻訳後の文章だよ。読み比べてみてね。

ぺいぺい畑でつかまえて
(原文: 鷽月さつか『キャッチャー・イン・ザ・ペイ(冒頭)』、邦題・訳:伊藤なむあひ)

 本当のことをいうと、海は少し遠いのです。お世辞にもオーシャン・ビューとは言い難く、ホテルのレストランから望めるのなんて湾のほんの切れっ端だけ。潮風なんてとても届きません。ですので『ホテル砂浜』なんて名前は誇張のように思えますが、これは不幸な歴史のせい。都市計画による埋め立てにより海のほうが逃げていった結果なのです。湾岸地域は今後さらに遠くなるようですよ。

 ねえ、ここって素敵でしょう? 前にお友達とランチしたの。

 平日のお昼過ぎ。レストランの客は一組だけ。上品そうな奥様と、陰鬱な青年です。どうやらふたりは親子のよう。母親である奥様が無理くり連れ出したのでしょう。息子である青年はいかにもしかたなく、といった風です。母親はずっとおしゃべり。息子はずっとだんまり。ふたりはあまり似ていませんが、お互い一緒にランチになんて来たくなかったという顔だけはそっくりでした。
 きっと沈黙恐怖症のケがあるのでしょう。母親はじぶんが何を喋っているのかわからないまま、口だけは機械のように動き続けています。子供の頃、あなたはどんなに音楽が好きだったか。どんなに明るい性格だったか。のべつまくなしにそんな話をしているのです(それはおそらく、息子を励まそうとしてのことなのでしょうが)。
 グラスの氷水に夏の日差しが刺さり、屈折した光を息子が一口、また一口と飲もうとしているようでした。光を取り込んでいる間だけは、母親が発する言葉から身を守れるというルールがあるみたいに。

 ほら、あなたも何か話して? なんか私ばかり喋ってるみたいじゃない。

 楽しそうにそう言うと、彼女はまた次の話を、そしてまた別の話を始めるのです。今度は家族で浜辺に行ったときの思い出です。息子は再びグラスに口をつけました。彼の水は最後の一口で、母親はまだ口すらつけていません。氷はすっかり溶けています。
 料理が運ばれてきました。二人前のサラダと、ブイヤベース風の魚介スープ。それから、メーン・ディッシュはロブスターをまるまる一匹使った豪華なグラタンです。メニューにはこうあります。『海老とホワイトソースの運命的な出会い!』

 さあ、おいしものを食べて元気ださなきゃ。ほらほら、あなたは昔から海老が大好きだったでしょう?

 母親はそう言いながら、ペンチのような食器でロブスターのハサミを割りました。彼がグラスに手を伸ばします。ですが、もう水は残っていません。だから彼は何かを喋らなくてはいけませんでした。

 運命について考えていたんだよ。

 えっ、何について?

 運命、について。まず、海老たちは体を真っ二つにされる。どでかい包丁でね。それから、残った背中の皮一枚もハサミでちょきちょきと切られて、右と左に完全に分けられる。でもここまではまだ運命の入口だ。本当の運命の分かれ目はここから。海老たちにはふたつの魅力的な運命が待っている。蒸し器で蒸し焼きになるか、竈≪かまど≫でグラタンになるか。このふたつの未来を、ここじゃ運命と呼ぶんだよ。たぶんね。これは海老たちの自由意思でどうにかできるもんじゃない。運命っていうのはさ、そういうものなんだ。

 次は母親がだんまりする番でした。初めて彼女がグラスの水に口をつけます。息子のおしゃべりは依然として止みませんでしたが、ウェイターがやってきて氷水をつぎ足すと、彼は二杯目の水に口をつけました。お喋りがぴたと止み、彼はまた安心してだんまりに戻ります。テーブルには母親がひどく恐れていた沈黙が料理と一緒に並びました。ぎくしゃくとしていますがしかし、ふたつのグラスの水嵩はここにきて完璧に揃っていました。
『ホテル砂浜』のレストランを出てからも、ふたりの間に会話らしい会話はありませんでした。母親の方こそぽつりぽつりと喋りはしましたが、それは自分の思考と言葉が合致していることを確認するための独り言でしかありませんでした。息子は息子でだんまりです。駐車場を出てからも、車に乗ってからもずっとそんな調子でした。空はどこまでいっても青く、例えばそう、ドライヴには最適な夏の日(だというのに)。
 彼が、助手席から窓の外を眺めています。道路に沿うように、幅が狭いくせに提が高い川が流れています。川は遠くの湾まで続いているようでした。ガードレールの向こうに見える水面は、ジンジャーエールの空き瓶みたいな色。洗剤でも捨てているのでしょうか、沈滞した場所には腐ったような虹が浮いていました。

さて、どうどったでしょうか。日本語から日本語への翻訳を、4作品で少しづつやり方を変えながらやってみたよ。

他人の文章を、意味と、構造と、文体と、どうしてこの人の書く世界になるのかという魔法の秘密、のよっつから考える読みといてみるというかなりエキサイティングな体験でした。

小説を書く人は一度試してみて欲しい。別に難しいことはしなくていいし、単純にめっちゃくちゃ楽しいです。

というわけでオカワダアキナさん、紙文さん、ひざのうらはやおさん、エディプスちゃんさん、そして読んでくれたみんな、ありがとうございました!また気が向いたらいつかやるかもですー。

伊藤なむあひ

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