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芸術と、芸術ではないもの。

芸術の定義、あるいは原則として、岡本太郎氏の著書にこんな記述がある。

>芸術はきれいであってはいけない。
うまくあってはいけない。
心地よくあってはいけない。
それが根本原則だ

- 岡本太郎
『自分の中に毒を持て』

また、人間の生き方については、同著作の中にこのような記述もある。


>才能のあるなしにかかわらず、自分として純粋に生きることが、人間のほんとうの生き方だ。

- 岡本太郎
『自分の中に毒を持て』


例えば、人間として本当の意味で絵を描くつもりならば、きれいに描いたり、うまく描いたり、心地よく描いたりしてはならない。
そして絵の才能のあるなしは本来的な芸術をやるのには関係ない、とも言えるだろうか。

こんにち、一般的によく売れそうな絵、依頼主の期待に応えて対価を得るような絵、そのようなものとはおおよそ正反対の発想である。

この岡本太郎氏の著書、『自分の中に毒を持て』は芸術をテーマにした本だから、経済やビジネス的な計算を抜きにした、純粋な芸術、人間本来のあり方について書いている。

また、この本は1988年の初版だが、そのころから情報化社会の空虚さと、個としての人間の危機について警鐘を鳴らしている。

つまり岡本太郎氏にとっての芸術とは、政治や経済では解決できない、個としての本来的な人間の領域を扱うもの。
人間本来の生命感を回復し守るための武器のようなもの、と言う考え方である。


私もこの一貫した考え方が、芸術の取り組みを考えるきっかけとして、非常に良質なものであるように思える。

一方で、実際に何をどのようにすれば良いか?
絵でもなんでも、自分の好きなようにやれば良いのはわかっていても、好きなようにやるのが、そもそも難しいのではないだろうか。

才能のある無しは関係なくても、実際になんの技術も手がかりもなしに、絵を描くのは難しい。

さしあたり、抽象的な「絵のようなもの」が出来上がっても、それは自分の何らかの気持ちが表現できていない、絵が活き活きしていない気がするし、おそらく実際にそうである。

名画名作と呼ばれるようなものは、この点が非常によくできているのである。
古い作品であっても、非常に生命感があり活き活きしている。

写実的な絵であれ、抽象的な絵であれ、名画とよばれるものは技術やノウハウを超えた、普遍的に共通した「優れた何か」がある、ように思う。

これについては、どのような方法で絵を制作するにしても、今後ずっと考え続けていく必要がある。

自分の絵が「優れた何か」を表現できていないように自分で感じるなら、それは本来的な人間としての自分が、純粋に解放されていないからであろう。













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