短編小説『麻雀』#2

 そうか。悠馬はライオネスの四番だった。敗戦ムードのベンチにおいてもただ一人鋭い眼光で前を見据えている悠馬にはテレビを通しても伝わってくる威圧感があった。

「オレはあみんかな?おじさん長く待たされるのはあんま好きじゃねえんだよ」

 金歯男の声に先ほどまで無かった怒気がこもる。野次馬たちからも苛立ちが伝わってきた。

「一つ、賭けをしないか?」

 俺はテレビから目を離すことなくその場にいる者たちに訊ねた。

「いやいや。賭けならさっきからずっとしているでしょう」

 白髪混じりの男が笑う。

 俺はテレビを指差しながら

「この試合、四番の河野がサヨナラホームランを打って埼玉ライオネスが優勝する」

と、言い放った。

「はあ!?」

 その場にいる全員が驚きの声とともに俺の方を見た。ダミ声の男だけが「それは本当かい!」と嬉しそうにしている。

「俺はそれに賭ける。もし俺の言う通りにならなかったら倍の百万払ってやるよ。だが本当に河野のホームランでライオネスが優勝したら今日のところは俺を見逃せ」

「そんなアホみたいな勝負あってたまるか!」

 金歯男が顔を真っ赤にして俺に詰め寄る。

「でも・・・面白いかもしれません」

 マスクの男が低い声で言った。対局中以外でこの男の声を聞くのは初めてだ。

「二番打者の小林の出塁率は2割8分9厘。次の広田の出塁率は3割2分。このツーアウトの状況で四番打者の河野まで打順が回ってくる確率は8.96パーセントしかありません。加えて、シーズン中驚くほど打っていた河野もこの日本シリーズ全七戦で一本もヒットが出ていないという沈黙ぶり。河野がサヨナラホームランを打つなんて、きっと天文学的な数値でしょう」

 マスクの男はなぜライオネスの選手の出塁率なんて知っているのだろう。この男の底は計り知れない。

「確かに。今日まだヒットが三本しか出ていないライオネス打線がここで息を吹き返すとは思えない」

 白髪混じりの男もマスクの男に同調するようにつぶやいた。

 すると、それまで我を忘れていた金歯男は一度周りをぐるりと見渡すと、

「そうかそうか!いいだろう。それに私はジャイアンズファンだ。ジャイアンズの優勝と百万円が一緒に転がり込んでくるなら願ったり叶ったりだよう」と、にっこりと笑った。

金歯男の言葉にその場が沸き立つ。思いがけないイベントにその場にいた者たちの注目が26インチの小さなテレビ画面に一気に集まった。

 しかし、ひとまず手詰まりの状況を脱したとはいえ最悪な状況には変わりない。一人でもアウトになってしまえば俺に百万という大金がのしかかる。俺は祈るような思いで試合の行方を見守った。

『小林に対する1球目は高めのボール球から入りました』

 打席に立つ小林の顔は分かりやすくこわばっていた。自分が最後の打者になってしまうかもしれないという恐怖は相当なものにちがいない。

『ここで牽制です!投手、一塁ランナーの足を警戒しています』

「こんな状況で盗塁なんかしねえよばあか」

 ダミ声が野次を飛ばした。確かに、普通この状況だったらランナーなんて気にせず打者だけに集中するのが正しいはず。しかし、ここまで好投してきたジャイアンズの投手はきっと今日初めてのプレッシャーを背負っているのだ。3点も余裕があるのだから何も気負う必要はないのに、なぜか一塁ランナーが気になってしまう違和感。足元からじわじわと不安が上ってくる気持ちの悪さ。勝利を決める最後のワンアウトを取る大変さをピッチャーだった俺は痛いほどよく知っていた。だからこそジャイアンズの投手は気持ちを整えるためにも牽制球を投げたのだ。

「あ!」

 投手が2投目を投げた瞬間、俺は思わず声をあげた。

『デッドボールです!小林選手の背中にボールが当たりました!これでツーアウト一、二塁です!』


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