短編『卒業』#最終

 原田優希

 優希は席から立ち上がろうとする詩織の肩を押さえつけた。

「今君が行ったら健吾の行為が全部無駄になる。健吾が君を差し置いて先に告発した意味がなくなるんだよ」

「だからって・・・・・・」

 体育館の左端がざわついている。馬場先生と時生が口論しているようだが、会話の内容までは聞こえてこない。

「とにかく、ここで健吾を信じて座っていてくれ。大丈夫、別にあいつは君みたいに推薦取り消しにされるわけじゃないから」

 昨日の時生と健吾の会話がマイクを通して体育館に響く。話が進むにつれて、ただ事じゃない会話の内容に体育館中がざわめき始めた。しかしそんな時、今度は優希たちが座っている体育館の右端の方から悲鳴が上がった。優希たちのそばに座っていた生徒たちが驚いた様子で席からどくと、その場に道が生まれた。生徒たちが床を見ている視線の先に注目してみると、どうやらねずみか何かが体育館に入ってきたようだ。

 ねずみが入ってきたくらいで騒ぎすぎだと席に座りなおした優希だったが、ねずみと思しき小動物は勢いを緩めることなく優希の方へ進んできた。そしてその後ろから一人の女子生徒が追いかけているのも目に入った。

 優希が危ないと思ったときにはもう遅く、小動物は優希に向かって突進してきた。驚いた優希は振り払おうと立ち上がったが灰色の小動物は優希のポケットに噛み付いたまま離れようとしない。

「ナンシー!」

 後ろから追いかけてきていた女子生徒が優希の制服から小動物を引き剥がした。女子生徒の手に収まるその姿を見るとねずみだと思っていた小動物の正体がハムスターだったことに気づく。優希はハムスターに噛まれた制服のポケットを調べてみた。制服にはくっきりと歯型がついている。ポケットの中には誰が撮ったか分からない優希の写真が入っていたが、これにも小さな歯型が刻まれていた。

「え・・・・・・その写真、なんで・・・・・・あ!」

 目の前の女子生徒は優希が持つ写真を見て驚き、そして優希の顔を見てさらに驚いた。

「ん?」

「その写真・・・・・・撮ったの私なんです。黙って撮ってごめんなさい」

 優希は目の前の女子生徒の言葉に驚くとともに、ハムスターを大事そうに抱える姿にどこか納得させられてもいた。そうか、だからこんなに優しい写真を撮れるのか。

「全然平気だよ。じゃあ返すね、この写真。歯型ついちゃったけど・・・・・・」

 優希は女子生徒に写真を差し出した。しかし、女子生徒が右手を伸ばして受け取ろうとしたとき、女子生徒の左手からハムスターがこぼれ落ちた。ハムスターは再び得た自由に喜んでいるかのように壇上の方へと走っていく。

「待ってナンシー!」

 女子生徒はハムスターを追いかけて、壇上の方へと走った。壇上では健吾の流している動画がほとんど終わりに近づいていた。ハムスターによって水を差されたのは自分たちの周りのほんの一部だったらしく、大半の生徒はずっと健吾が流す動画に釘付けだった。時生に対する生徒たちの野次が飛び交い、顔を真っ赤にした時生が健吾を止めに入ろうとする。健吾を止めに行こうとする度に馬場先生に止められていた時生だったが、とうとう堪忍袋の緒が切れたらしく馬場先生の制止を振り切って壇上へと上がった。

 健吾を止めに入ろうとしている時生と壇上に向かって猛然と走っているハムスター。その行方を見ていることしかできない優希はハムスターに、そのまま時生に噛みついてしまえ、と願った。生徒の行動をもみ消そうとする教師に嚙みつけ。生徒のためと理由をつければ何をしてもいいと思っている教師に嚙みつけ。

 優希の思いが届いたのか、ハムスターがびっくりするほどの高さを飛び上がった。

 

 そのとき、大地が揺れた。


  僕

 いつものように夕陽が沈む頃、僕らは丘の上に立つ小学校の体育館にいた。泣き声が途絶えることのない体育館の中に留まることに嫌気がさした僕は、外に出て丘の上から僕らの街を見下ろした。

 警報が鳴っていたときにはこの街の全てが飲み込まれる恐怖で息が詰まる思いだったが、結局のところ津波は僕らの街にまでたどり着かなかった。僕らの想像上で一度水浸しになっていた街は最悪の状況を免れたが、いくつかの古い建物は倒壊などの被害を受けていることは間違いない。しかし、この丘の上から見下ろす僕らの街はいつものように呼吸を続けていた。僕たちが卒業することなんてまるで興味がないかのように。地震が起きたことなんてすぐに忘れてしまったかのように。学校も商店街もお化けの出る神社も、いつものように夕陽を浴びてオレンジ色に染まっていた。

 僕が立っている丘の傍で、今井健吾が野田詩織と何かを話している。怒っている野田を今井がなだめているようにも見えた。地震が起きる直前、今井が告白した話は避難所に集まっている生徒たちのあいだでもその話題でもちきりになるほど衝撃の大きいものだった。きっと体育館の中で噂話の中心にいるのが嫌だったから外に出てきたのだろう。もしくは、体育館の端で泣きながら家族に謝っている時生の姿を見るのが耐えられなかったからかもしれない。

 健吾と詩織よりも奥に目を移すと、体育館の入り口近くに原田優希と駒野結、そして伊東若菜と森口志保の四人がハムスターを愛でながら楽しそうに話している。僕は再び向き直り、街を見下ろした。

 卒業した僕たちの大半はこの街から旅立つ。夕陽が似合うこの街に別れを告げて、新しい世界へと歩き始める。孤独を捨てて、憎しみを捨てて、僕たちは歩き始める。僕たちはどこまで行けるだろうか。僕たちはどれほど強くなれるだろうか。何気ない日常が失われる刹那の不安に負けない強さを持てるだろうか。突如降りかかる災禍から家族を守る強さを持てるだろうか。

 僕にはまだ分からない。僕らにはまだ分からないことだらけだ。少しだけ分かることといえば、この街からたくさんの道が伸びているということ。そして進んでみなければ何も分からないということ。

 僕はこれから、今よりもう少し遠くに行く。きっとそれが卒業というものだ。

 だから僕は、記憶の中に住む僕に

 これからもこの街に残っていてくれるかい?

と問いかけた。


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