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人生を変えた旅 1 ~今も残る指の感触~

初めてのチベット旅行の中で、今でも私の人生に影響を与え続けているできごとがある。
それは、ラサの中心部にあるジョカン(大昭寺)という寺院を訪れた時のこと。ジョカンはチベット仏教の寺院で、チベットの人なら一度は訪れたいと願う聖地である。寺院の正面入り口の前では、敬虔なチベット仏教徒が五体投地を繰り返していた。友人と私にとってはその様子が珍しく、カメラに収めようとしていた。
私はこの旅行に少しずつ貯めたお金で買った一眼レフのカメラを持ってきていた。見るものすべてが珍しく新しいと感じ、さまざまな被写体にレンズを向け、シャッターを切った。
ジョカンでも少し高揚した面持ちで、熱心に祈る人々を撮影していた。ひとしきりシャッターを切った後、別の角度から撮影するため、レンズをのぞいたまま移動しようとしたが、なぜか足がまったく動かない。不思議に思って自分の足を見ると、右足に一人、左足に一人子どもがしがみついている。年の頃なら2、3歳ぐらいだろうか。女の子と男の子。兄弟のようにも思える。美しい色のチベットの民族衣装を着ているが、髪や顔は黒く汚れている。はじめは何かのいたずらかと思い、「放してね」と(日本語で)何度か話しかけてみた。両足の子どもたちの表情は真剣でいたずらではないことを物語る。小さな手をほどこうとすると、私のふくらはぎをつかむ力は強くなった。
「これはもしや、物乞い・・・?」
ガイドブックでは読んだことがあったが、それはただの情報であり、実際に出会ったことはなかった。無論、小銭を払えば足を放してくれることは想像できた。しかし、その時の私はどうしても払いたくなかった。
地元の人が熱心に祈る場に、斜め掛けバッグに一眼レフ、いかにも旅行者ですといった風情で大きな顔をしていた自分、日本人があまり行かない場所を旅して、ちょっと上級者気分だった自分、なのに現地の事情を何も知らない自分。そんな自分を子どもたちにすべて見透かされたような気がしたからだった。
お金を払わないのはそんな自分への小さな意地にすぎない。ここで払ってしまったら、恥ずかしいままの自分で終わってしまうんじゃないか。
少しずつ、私の足をつかむ指をほどいていく。ほどいてもまたつかむ、の繰り返し。足をブラブラ振ってみたりもした。格闘すること数十分。子どもたちも根負けしたのか、ようやく手を放してどこかへ走り去っていった。
痛い、足が痛い。それよりも心が痛い。お金を渡せばよかったんじゃないか。聞けば、誰かに雇われて物乞いのふりをすることで生計を立てているチベット族の子どももいるという。

その時、撮影していたのが下の写真。

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今でもこの写真を見ると心が痛む。そして両ふくらはぎにはあの日小さな手でつかまれた感触がよみがえる。その痛みは自分への戒めだと思う。
以降、私の旅は観光旅行ではなくなった。それは社会の現実を知る扉。私の人生にとって、旅は大きな意味を持つものとなった。

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