2023-02-05(同性婚や性的少数者に対する首相と首相秘書官の発言について)

 ここ数日の公然とした性的少数者への差別に、ずっと、何か言いたい——というよりは、そのような発言を公然とすることを可能な価値観をできるかぎり深く抉ってやりたい——そう思っていた。一方で、自分の書き仕事についてずっと取り憑かれるように考えていて、そうするための言葉を十分に探ることができないでいた。昨日一昨日とそれらが自分の手を離れていき、ようやくそれができるようになった。

岸田首相は衆院予算委で、同性婚などに関し「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だ。社会全体の雰囲気にしっかり思いを巡らせた上で判断することが大事だ」と述べた。

 この最悪な「家族観や価値観、社会」が変わることに何の問題が?婚姻制度自体が排他的で問題の多い制度だけれど、それが異性愛者のみに開かれているのは明確に差別で、差別的な制度がいますぐに変わることに何の問題があるのだろうか?もはやなんとしても差別を温存したいという告白なのでは?……ということをまず思うが、すでに現在進行形で変わっている(し、否応なしに変わっていく)価値観が変わっていくことをそれが問題であるかのように述べていること自体に、「伝統的家族観」とそれが温存しそれを強固にする差別的制度としての強制的異性愛をなんとしても変えたくないのだということが見え隠れしている。
 あらゆる差別の問題に共通して言えることだが、このように制度によって公然と差別が行われつづけている状況そのものが、差別に晒されている人たちへの潜在的な暴力である。そのような潜在的暴力を放置するばかりか、積極的に振るうことは、自民党を支持しない理由として十分すぎるぐらいだろう。逆に、消極的にであれ自民党を支持することはそのような暴力に大なり小なり加担する/させられる結果になる。

LGBTQなど性的少数者や同性婚のあり方を巡り、経済産業省出身の荒井勝喜首相秘書官が3日夜、記者団の取材に「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」などと差別的な発言をした。


荒井氏は「社会に与える影響が大きい。マイナスだ。秘書官室もみんな反対する」などと発言したほか、「人権や価値観は尊重するが、同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」との趣旨の言及もあった

 公然と差別をして憚らない人間はこちらも願い下げである。しかし、「見る」のも嫌だということだが、この人は人の性的指向やジェンダー・アイデンティティがつねに可視化されていると、名札のようにクィアなアイデンティティが書かれた紙を貼って歩いているとでも思っているのだろうか?心配しなくとも、あなたが差別をして憚らないために、あなたの前で多くのクィアはクィアとして姿をあらわさないことを選び、くそったれな差別主義者のあなたの周りはくそったれなほど「快適」だろう。この秘書官に「僕だって」「秘書官室もみんな」と発言することを可能にする環境は何か?「国を捨てる」の「国」が指すのは何か?まさか自民党政権と「国」を重ね合わせた自意識のもとに発せられた言葉なのか?だとしたら、たかが一政党の構成員がそのような自意識を持つことを可能にする政治の状況は端的におかしい。そしてもしそうで、「国を捨てる」ことができるならわたしもとっくにこの「国を捨てて」いる。異性愛規範と性別二元論と「伝統的家族観」とゼノフォビアと障害者差別と、差別を維持する構造と、最悪なこの「国」を全部一緒にまとめて燃やして捨ててみせる。「国を捨てる」ことが海外に出て行くことを意味するのであれば、同性婚が可能な国へ移住して行く人たちのことはどうして計算に入れないのか。見えていないんですか?それともまさか「人」に入れてないなんてことはないですよね?でも「人権や価値観は尊重する」と言ったのと同じ口で性的少数者の差別を堂々として見せるのだから、少なくともこの人にとっては性的少数者の「人権や価値観」は尊重すべきものではないのだろう……。
 あまりに直裁な差別に、こちらにはストレートな怒りを乗せることを止められない。しかし、高島鈴が昨日、まさにこの発言をみた場で「しょうもない(差別的)発言のそのしょうもなさに傷つく」ということを言語化してくれたのには少し救われた。

わたしたちが生活の中で暴力を振るうものに出会うとき——差別という暴力の行使を目にするとき——その相手のほとんどは個人や個人からなる集団だが、個人がそのような暴力を振るうことを可能にしているのは、制度・規範や政治による差別の黙認ないしは追認である。その意味においてもやはり、「個人的なことは政治的なこと」である。


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