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ふるせらる(2) 日本はなぜ敗れるのか 読了2

昨日に引き続き「日本はなぜ敗れるのか」の感想の続きをまとめていく。

第8章 反省

敗因10、反省力なきこと

日本人の行った最初の近代戦争は、「西南の役」である。この戦争の中に、実は、現代に至るまでの様々な問題が、すべて露呈していると言って過言ではない。従ってわれわれが、本当に西南戦争を調べて反省する能力があったなら、その後の日本の歴史は変わっていたであろう。

203ページ 第8章 反省

反省というが、西南戦争と同じことが太平洋戦争でも繰り返されたと著者は言う。西南戦争とは西郷隆盛が指揮した最後の士族反乱と言われ挙兵した反乱のこと。この頃、新政府が中央集権化を進める過程で不満を持った士族が反乱を起こしていて最後の反乱となったのが西南の役。

西郷軍側は西郷の声望に依存して「西郷ひとたび立てば・・」と思っていて、明治九年の萩の乱での官軍の敗走を見て、官軍の百姓兵なんぞ敵にあらずと思っていた。また西郷軍は簡単に東京に入城できると思っていた節があり手紙の類などを東京の親類などに届けるのに軍に渡すなどもしていたらしい。そして西郷軍は緒戦で急進撃を成し遂げ熊本まで到達する。
しかしその後補給が続かず、また火力不足の露呈、国内の厭戦気分で膠着していく。そして

西郷軍は、官軍の「物量攻撃」の前に壊滅するのである。そして西郷側は最後まで、「官軍の物量攻撃に負けた。物量さえ同じなら負けなかった」式のことを言いつつ、次々に玉砕戦術を繰り返していく。近代戦において「玉砕」という言葉が使われたのは、この西南戦争がはじめてであろう。

207ページ 第8章 反省

このあたりは太平洋戦争の日本軍と同じで、一芸主義の極致も前提替われば役に立たないことを認識できなかったことそっくりである。そして戦争末期の玉砕戦術は比島での行動とこちらもそっくりで、何か僥倖を期待していたのかと思わせると著者は言う。
こういう無に等しい期待をするのは現代においてもよくあって、何か失敗するのが分かってても何もしないとか、工夫しないといけないのに同じことを繰り返すとか、身近な現実でもまだある。
そして最後に西郷軍でも娘子軍というのを編成していたようだ。これは太平洋戦争の時の女子竹やり部隊と同じである。ここまでそのままだと言葉もないが、すべてにおいて現在にまだ引き継がれているところがあるように思える。

では一体「反省」とは何なのか。反省しておりますとは、何やら儀式をすることではあるまい。それは過去の事実をそのままに現在の人間に見せることであり、それで十分のはずである。(中略)その時点で見たこと聞いたことをそのまま記した小松氏の態度だったわけである。

217ページ 第8章 反省

色んな忖度、黒塗りの文書、破棄されたもの、反省力があるとは言えない世の中のようだ。反省の前に正当化、もしくは無効化することがあるがビジネスでそんなことやっていては衰退するだけ。
でも身近を見ていてもこういう傾向から抜け出せない。攻撃があるから言い訳がある。大手のえらいところではしっかりしてそうだが、社会の末端の自分のいる環境では、そこを切り分けて議論していく土壌がない。社会・教育でそういう文化が築ければ少しは変わっていくのだろうか。

第9章 生物としての人間

敗因 ニ一 指導者に生物学的常識がなかった事
敗因 一九 日本は人命を粗末にし、米国は大切にした

225ページ 第9章 生物としての人間

まあ万博の今のありさま見ていれば分かるが、いざとなったら残業規制はやっぱり撤廃。少子化対策でもそうだが、いきなりどうにもならないものをちょっと予算付ければ人が増えると思いこむ。(今は一人前の人になるのに20年はかかるのだが)生物学的常識も人命を粗末にするも今まだ続いている。終戦75年でこの有り様なので基本的な勉強すら軽視というか、プログラムの授業よりアリの巣観察を義務付けた方がいいのではないかと思うくらいだ。

何となく思うのはコンクリの街にしてしまって、生き物の基本的な生態すらどこかに置き忘れたのではないかと思う。働いて食べて疲れて寝る。これを栄養ドリンクあればいいとか、お金渡せば無限に働けるかのように計算してしまって机上の空論だから、少子化が止まらないのではと思ってしまう。ただこの章はそんな話だけではない。

人間とは生物である。そしてあらゆる生物は自己の生存のために、それぞれが置かれた環境において、その生存をかけて力いっぱい活動して生きている。人間とてその例外でありえない。(中略)人間という生物の社会機構の基本とは、実は、食物を各人に配給する機構だという事実を。(中略)しかし人は、空気の存在を当然としてこれを忘れているように、社会機構のこの機能を当然として、それを忘れている。そしてそれを忘れていることが、「生物学的常識の欠如」といえる。

228ページ 第9章 生物としての人間

当たり前だが食べ物無しでは生きられない。その前に水だが、水食べ物これが様々な社会機構、自給、配給、貨幣交換によって賄われているうちはよいが、食べ物が手に入らなくなればその機構も一瞬にして崩壊する。そこに精神力などというものはない。死んでしまうからだ。
多数の餓死者もでたというが飢えの恐ろしさについても記載がある。

飢えは、胃袋の問題ではない。人間は胃袋が空でありつづけても、頭脳の方は空にならず無変化だと人びとは錯覚しているから、飢えの恐ろしさが分からない(中略)同じように飢えれば、そういう感情はいっさいなくなる。そして本当に恐ろしい点は、この「なくなる」ということなのである。

232ページ

もうこれでは戦闘どころではない。精神をもって我慢するとか無理な話で何時後ろから撃たれてもおかしくない。栄養失調が体だけの異変だと思ってしまうが頭への栄養も閉ざされる以上、異変が起きる。
今の世界を見渡してハマスや北朝鮮などあるが、なぜそんな独裁に従うのか、根本的な部分、食べ物を握られていては従うよりほかに無しという事かもしれないし、日本でも社畜というのが流行っていて自分もそれ気味だが・・食べ物に困ってはどうしようもないのだろう。

中国軍がまだ延安にいたころ、まず農地を整備して「食」を確保した。彼らは、それが基礎であることを知っていた。これは米比軍も同じで、米軍の再来まで頑張りつづけた彼らは、まず山中のジャングル内に「隠田」ならぬ「隠畑」を、焼畑農法の方法をつかってつくりあげ、それで「食」を確保してからゲリラ戦を展開した。

239ページ

終戦前、フィリピンに取り残され食料も尽きた部隊は、このすでに去っていた米軍が残していった畑の食糧で終戦まで持ちこたえたとは何の皮肉だろう。長期持久戦も遊撃戦もスローガンだけでは何もできなかった。そしてずっと飢えていた部隊が食にありつけて初めて、亡くなった同僚を弔う気持ちが再開し人間らしい気持ちがよみがえったらしい。
寝食忘れて頑張るとかを美化するが、それは無理だという事は失敗の本質にも出てくるが、ここでもまた再認識させられる。

第10章 思想的不徹底

敗因 一六 思想的に徹底したものがなかった事
敗因 五 精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)
敗因 七 基礎科学の研究をしなかった事
敗因 六 日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する

247ページ 思想的不徹底

この章はいろんなことが取り上げられているが、ひとつ取り上げるとするならば、日本は生産力が低い。よって火力の物資も足りないが、それを補う戦略もなければゲリラ戦によって生かすという形もなかった。とある。
万博の騒動なんかを見ていても分かるが、お上から降ってくるのは単純なやれみたいな命令だけで、実行可能なレベルならよいが物資的制約などがあるのに手立てもなく、現場まで命令が下りてきて現場で処理するということがある。軍の場合は参謀長が戦術までは行っていたようだが、根本的な戦略が全軍抜けていたのでこのようなことになるのだろう。
実際どうかは別としてアメリカの外資企業では、上司は基本的にその職を全うするのに必要な最低知識経験があることが前提になっているというが、日本の場合それがない。あっても一部だけ。いかに現場任せといえば聞こえがいいが、そこの意見も無しに変更不能な命令を下す例が未だにあるという事だろう。
明治の時に各藩が合体して大日本帝国ができたが、結局寄せ集めのママで相手のところには立ち入らないシマ意識みたいなものがあり縦割りの上下も完全分業制というのが国の実態としてまだあるように思える。これはバブル前の製造業に全振りしていた時みたいに同じ方向を向いてた時はよいが、色んな産業をバランスよくとなってきたときに上に立つものは知識ないのに異動され、現場を知ってるのは現場だけということになったように感じる。

長くなったので一旦ここまでとして残り2章は続きとしたい。

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